浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



東日本橋・あひ鴨一品・鳥安 その1

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4047号

3月10日(木)夜

さて、今日は東日本橋の[鳥安]。

見返してみると、随分と久しぶりであった。

少し前から、内儀(かみ)さんが予約をしていた。

明治5年(1875年)創業。
初代は、秋田佐竹藩の留守居役であったという。
佐竹藩邸は毎度書いている、拙亭ご近所の佐竹商店街

日本橋というと地下鉄の駅はあるが、
もう一つピンとこなかろう。
両国橋の西詰の一角という方が実際を表しているだろう。

地図を見てみよう。

現代。

今は、隅田川のほとりだが、マンションと
オフィスビルが立ち並ぶ、なんということのない
街並み。

が、以前はというとかなり趣を異にしていた。
明治の初めなので、江戸の頃と大きくは
違っていないので見てみよう。

江戸。

両国橋があって、その西詰。
今はぎりぎりまでビルが立ち並んでいるが、
両国広小路という広場であった。

また、今、両国というと橋を渡った東側をいうが、
以前は、ただ両国といえば、こちら側を
指していたのである。
両国が向こう側を指すようになったのは、明治37年(1904年)
総武線(当時総武鉄道)の両国駅ができて後のことである。

この両国広小路という広場には、屋台店や芝居、見世物
などの小屋が許されており、盛り場であった。
また、広場周辺では料理や、美人が客を引く茶店もあり
人を集めていた。
まったく今では考えられないが、こういう場所に
この店は創業していたのである。
ただし、明治政府は、こうした広場の屋台、見世物小屋
風紀上よろしくないものとして禁止し、広場自体をなくした。
明治期には周辺には料理や、寄席などもありその雰囲気を
残していたようである。

また、もう一つ、この界隈の記憶では
薬研(やげん)堀に触れておかなければいけない。
今も、近くには薬研堀不動院というお不動様がある。
江戸の地図には、薬研堀薬研堀埋立地というのが
見える。
七味唐辛子の薬研堀である。
[やげん堀]は今は本店は浅草にあるが、起源はここ。
“薬研”というのは、生薬を粉にする道具のこと。
由来としては、後からこの字を当てたと考えるのが
妥当のようだが、この界隈に薬の問屋が集まっており、
その縁で、七色(なないろ)唐辛子店が生まれたよう。
(七味は元来は関西の言葉で、江戸・東京では、七色と
言っていた。)

また、江戸の地図に柳橋と書き入れてある。
柳橋というと、この北の神田川に架かる橋の名前で
ご存知の通り、花柳界の名前になっていたのだが、
古くはこちら側を指したらしい。
詳細はわからないのだが、薬研堀に架かる橋が元柳橋
あるのでこのことかもしれない。

さて。
そんなことで[鳥安]。

予約は18時。
元浅草の拙亭からは、遠くはないのだが、
ちょいと行きずらいので、1000円程度なので、
タクシー。

さすがに、真っ暗。

看板には、やはり両国とある。

石畳を通り、玄関へ。

名乗って、あがる。

エレベーターで二階へ。
座敷は、新和風というのか、お洒落。

掘りごたつ式のお膳。

鳥の顔の入ったかわいいコースター。

ビールをもらう。

ここは、あい鴨すき焼きのコースのみ。
なにも言わなくとも、座れば自動的に出てくる。

先付けというのか、前菜というのか、四種。

左上から、筍木の芽和えというのか。
右上が合鴨スモーク。
真ん中が鮭。
左下がそら豆、右下は、桜餅だが中に鴨肉味噌。

炭の焜炉(こんろ)。

お姐さんが鉄の鍋をのせる。

これは土鍋型の器だが、吸い物。

白いのは、鶏肉の団子。

鴨の前にもう一皿。

これも、鴨ではなく、鶏ささみ。

白味噌の酢味噌。
ピンク色の花びらに見立てたのは
ゆり根のよう。
右はわかめとわらび。
春を先取りしているよう。

そろそろ、鍋だが、おろしがきた。

ここの合鴨すき焼きはおろししょうゆだけで
食べる。


つづく

 

 

鳥安

 

 

 

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