浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草公園裏・柳通り・そば・弁天

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6月25日(木)第二食

さて。

浅草のそばや[弁天]というところを
ご存知であろうか。

観音裏の柳通りにゴロゴロ会館から入って左側。
見番の斜向かいあたり。

創業は戦後の昭和26年(1951年)という。
浅草でも蕎麦やでは老舗といってよいだろう。

見返しても、ここに書いていなかったが、
なん回かは入っている。

夕方、入ってみる。

ここ、今は、浅草三丁目。

江戸期にはここは、浅草田んぼ、と、いってよいのか。

浅草田んぼといっても、江戸期の史料を見ると区域は狭いが
ここに「鷭御場」という文字が見える。鴨場という言葉を聞いたことが
あるが、同様に文字通り信用すると、将軍用に鷭(バン)という鳥を
狩る場所ということになると思われる。江戸期も年代によっても違う
のであろうが、江戸郊外とはいえ、吉原遊郭も近いこんなところで
どのくらい実際に使われていたのか。

明治になり、幕府に関係の深かった浅草寺関連地域が、
上野寛永寺、芝増上寺などと同時に公園指定され明治新政府
東京市に接収された。
観音裏のこのあたりもその指定に含まれ、七区となる。
いわゆる浅草公園の興行街が六区で有名だがその次の番号
ということである。明治になり町家が建っていったという
ことになる。

このあたりの公園指定はほどなく解除され北隣の
象潟町に入り、象潟一丁目となる。

戦前の地図を出してみよう。

今の[弁天]の位置に、赤い矢印を入れてある。
言問通りもあり、今と町割りは既に変わらない。

象潟というのは、キサカタと読む。
象潟は秋田県にかほ市象潟町に由来する。

江戸期の象潟の領主、出羽本庄藩六郷家の下屋敷
この北側にあったことに因む。

東京の地名というのは、意外にこういう
大名屋敷に由来するものは少なくない。

余談であるが、拙亭近所にもある。
元浅草の拙亭前を南北に走っている、左衛門橋通り。
これは、南に下った神田川に架かる橋が今、左衛門橋という。
この神田川沿いに江戸期、出羽庄内藩酒井左衛門尉家の
下屋敷があった。江戸期にはまだ橋はなかったのだが、
このあたりの神田川の北岸が左衛門河岸と呼ばれていた。

また、ドラマや映画のロケにもよく使われる佐竹商店街
これもなん回か書いているが、同じく秋田、出羽久保田藩
佐竹家の上屋敷があった場所。

明治になって、もちろん大名屋敷はなくなったのだが、
名前は残った。当時、それだけ大名家の名前が、
親しまれていたという証しではあろう。

神田川沿いの庄内藩邸も明治になり市民の住む町となり、
最初は他の町名を付けられたのだが、地元民には
左衛門という名前に愛着があったのか、通称として
呼ばれ続け、その後、実際の町名に復帰したという
経緯まであったようである。

ともあれ。
観音裏のそばや[弁天]であった。

この浅草寺言問通りの北側は今は少し寂しいが、
浅草の花柳界
料亭、芸者さんの町。
この柳通りには見番もあり、過去「宮戸座」という
芝居小屋もあり、まあ、界隈ではメインの通りと
いってよろしかろう。

夕方、入ると先客は一組ほど。

入ってすぐの一人用のカウンターに掛ける。

お酒を冷やでもらう。

山形の名前も「弁天」という酒。
呑むと、本醸造であるがものすごい吟醸香
吟醸系だが、味はすっきり。

看板のにしん煮をもらう。

東京のそばやでは、あまり多くは見ないが
まあ、そばやらしいもの。山椒が付いているので小皿に出す。

濃い甘辛で、とても柔らかく煮てある。
うまい。

腹が減っており、ペロッとつまんでしまった。
もう一品なにか、、、?。
板わさ、かな。
頼むと、二つあるという。
ノーマルなものと鈴廣のものとのこと。
150円高い。
違うんですか?と聞くと、ものが違います、と。
いや、そういうことじゃなくて、、、
鈴廣じゃなきゃ、安い方はなに?を聞きたかったのだが。
まあ、よい。じゃ、鈴廣で。

そばは、写真入りで紹介されてる、
蛤せいろを、頼んでみる。

大ぶりな蛤が三つ。

ここのそばは、更科系の白いもの。

蛤の時期としては、この季節ではなかったか。
産卵期で、もう一つなことがある。

そばをつけずらいので、先に蛤を平らげてしまい、貝殻は外に出し、
そばを手繰る。

かなりの盛りのよさ、で、ある。

腹一杯。

ここはご飯ものもある。

この界隈“趣味”そばが実は多いが、ここは
気の置けない、居心地のよいそばや、で、ある。

 


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