2月2日(土)夜
さて。
土曜日。
今日は両国の[ぼうず志ゃも]。
軍鶏鍋を中心とした、軍鶏や。
前から行きたかったのだが、
ウイークデーのみで、なかなかこれなかった。
創業は江戸も初期の天和年間、という。
(1680年頃、将軍は綱吉の初期。が、これはあまりに古い。
俄かに信じ難いような気もする。本当であろうか。)
この店は、落語にも出てくる。
なにかというと『船徳』。
「こないだねぇ、客に余計祝儀もらったとっから、
いつもご馳走酒でうまくねえや。
たまにゃぁ手銭で一杯(いっぺぇ)やりてぇと思ってね、
そいから[ぼうず]へいって、たらふく用いちゃったんだ。
すきっ腹だぁ、すっかり酔っぱらってちゃって、
隣のもんに喧嘩ぁ吹っかけてねぇ、皿三枚(サンメイ)に
徳利二本ブッカイたんだ。
近所で暴れた、親方どっかで聞いてきたんだ。」
舟宿に居候をしている若旦那が俄か船頭になるという
まあ、他愛のない噺だが、文楽師は、真夏の季節感とともに、
実に愉快に演じられていた。
[ぼうず]で暴れたのは、この舟宿の船頭、で、ある。
この噺の舞台の舟宿は、柳橋の[大増]という家。
(こちらは実在であったかは不明。)
柳橋と両国は両国橋の袂(たもと)同士。
より大きな地図で 断腸亭料理日記・両国[ぼうずしゃも] を表示
江戸の地図
両国というと今は、隅田川を渡った東側だが、
以前は両国橋をはさんだ両側がともに両国と呼ばれ、
[ぼうず志ゃも]のある東側は、東両国と呼ばれていた。
東も西も、橋の袂は広小路といって、広場になっており、
そこには見世物や、芝居小屋、床店(とこみせ、露店のこと。)
などが立ち並ぶ盛り場で、その周辺には水茶屋、
名のある料理屋、寄席なども立ち並んでいた。
江戸前のにぎり鮨を考案したという華屋与兵衛というのも
この東両国の[ぼうず志ゃも]の近くであったという。
今のこのあたりは、場所柄、相撲部屋などもあるが、
どちらかといえば、静かな住宅地という趣で、
以前のにぎわいというものは、まったく想像できない。
当時の痕跡は、このぼうず志ゃもと、京葉道路沿いの
猪鍋の、ももんじやくらいかもしれない。
先に書いたが[ぼうず志ゃも]は土曜休みなのだが、
うちの内儀(かみ)さんがTELをしてみると、お馴染みさんの
予約があったとかで、特別に開けており「いいですよ」
とのことで、6時半に予約ができた。
タクシーで向かう。
新堀通りから、蔵前通り(江戸通り)、
浅草橋を渡って左。
すぐに両国橋。渡って、一つ目の信号で降りる。
京葉道路を渡って南に向かっている通りに入る。
この通りは一之橋(一つ目橋)につながっているので
今はそういわないが、一つ目通り、と、いってよいのであろう。
[ぼうず志ゃも]はすぐ右側。
紺の暖簾に白抜きで[ぼうず志ゃも]。
余談だが、志ゃもの“志”は“し”の古い仮名文字、
変体仮名。新橋を、志んばし、などと書いたりする。
暖簾にある“ぼうず”の“ず”も変体仮名。
この字、で、ある。
今の“す”の上の方だけとったような字だが、
別の字。今の“す”は“寸”が元の字で、
この変体仮名は“春”が元の字。
入ると、、、誰もいない。
と、すぐ奥が調理場のようで、板場をやっている
ご主人らしい年配の男性が出てくる。
名乗ると、お二階へ、というので、
靴を脱いで、あがる。
あがっても、、誰もいない、、、?
あ。
着物姿の年配の女性、女将さんであろうか、
出てきて、こちらへ、と一つの部屋へ案内される。
ここはすべて、個室の座敷のよう。
そして、本来は休みの土曜日だからか、
どうもご主人と女将さんの二人のよう。
入った部屋は、六畳。
今日は、随分と暖かい一日であったが、
ストーブがガンガン焚かれ、暑いくらい。
隣の部屋は、そのお馴染みさんらしき
男性のグループ。
もう既に、宴たけなわのよう。
まずは、ビール。
キリン。
どこもそうだが、こういう店は、
お品書きなど、ない。
軍鶏の鍋だけ。
と、いったところで、今日はここまで。
また明日。
墨田区両国1丁目9−7
03-3631-7224