浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



両国・ぼうず志ゃも その1

dancyotei2013-02-04


2月2日(土)夜



さて。



土曜日。



今日は両国の[ぼうず志ゃも]。


軍鶏鍋を中心とした、軍鶏や。


前から行きたかったのだが、
ウイークデーのみで、なかなかこれなかった。


創業は江戸も初期の天和年間、という。
(1680年頃、将軍は綱吉の初期。が、これはあまりに古い。
俄かに信じ難いような気もする。本当であろうか。)


この店は、落語にも出てくる。
なにかというと『船徳』。


船徳といえば、先代文楽師にとどめを刺そう。





「こないだねぇ、客に余計祝儀もらったとっから、


いつもご馳走酒でうまくねえや。


たまにゃぁ手銭で一杯(いっぺぇ)やりてぇと思ってね、


そいから[ぼうず]へいって、たらふく用いちゃったんだ。



すきっ腹だぁ、すっかり酔っぱらってちゃって、


隣のもんに喧嘩ぁ吹っかけてねぇ、皿三枚(サンメイ)に


徳利二本ブッカイたんだ。


近所で暴れた、親方どっかで聞いてきたんだ。」




舟宿に居候をしている若旦那が俄か船頭になるという
まあ、他愛のない噺だが、文楽師は、真夏の季節感とともに、
実に愉快に演じられていた。
[ぼうず]で暴れたのは、この舟宿の船頭、で、ある。


この噺の舞台の舟宿は、柳橋の[大増]という家。
(こちらは実在であったかは不明。)


柳橋と両国は両国橋の袂(たもと)同士。





より大きな地図で 断腸亭料理日記・両国[ぼうずしゃも] を表示



江戸の地図



両国というと今は、隅田川を渡った東側だが、
以前は両国橋をはさんだ両側がともに両国と呼ばれ、
[ぼうず志ゃも]のある東側は、東両国と呼ばれていた。


東も西も、橋の袂は広小路といって、広場になっており、
そこには見世物や、芝居小屋、床店(とこみせ、露店のこと。)
などが立ち並ぶ盛り場で、その周辺には水茶屋、
名のある料理屋、寄席なども立ち並んでいた。


江戸前のにぎり鮨を考案したという華屋与兵衛というのも
この東両国の[ぼうず志ゃも]の近くであったという。


今のこのあたりは、場所柄、相撲部屋などもあるが、
どちらかといえば、静かな住宅地という趣で、
以前のにぎわいというものは、まったく想像できない。


当時の痕跡は、このぼうず志ゃもと、京葉道路沿いの
猪鍋の、ももんじやくらいかもしれない。


先に書いたが[ぼうず志ゃも]は土曜休みなのだが、
うちの内儀(かみ)さんがTELをしてみると、お馴染みさんの
予約があったとかで、特別に開けており「いいですよ」
とのことで、6時半に予約ができた。


タクシーで向かう。


新堀通りから、蔵前通り(江戸通り)、
浅草橋を渡って左。
すぐに両国橋。渡って、一つ目の信号で降りる。


京葉道路を渡って南に向かっている通りに入る。
この通りは一之橋(一つ目橋)につながっているので
今はそういわないが、一つ目通り、と、いってよいのであろう。


[ぼうず志ゃも]はすぐ右側。





紺の暖簾に白抜きで[ぼうず志ゃも]。


余談だが、志ゃもの“志”は“し”の古い仮名文字、
変体仮名。新橋を、志んばし、などと書いたりする。


暖簾にある“ぼうず”の“ず”も変体仮名






この字、で、ある。


今の“す”の上の方だけとったような字だが、
別の字。今の“す”は“寸”が元の字で、
この変体仮名は“春”が元の字。



入ると、、、誰もいない。




と、すぐ奥が調理場のようで、板場をやっている
ご主人らしい年配の男性が出てくる。


名乗ると、お二階へ、というので、
靴を脱いで、あがる。


あがっても、、誰もいない、、、?


あ。




着物姿の年配の女性、女将さんであろうか、
出てきて、こちらへ、と一つの部屋へ案内される。


ここはすべて、個室の座敷のよう。


そして、本来は休みの土曜日だからか、
どうもご主人と女将さんの二人のよう。


入った部屋は、六畳。


今日は、随分と暖かい一日であったが、
ストーブがガンガン焚かれ、暑いくらい。


隣の部屋は、そのお馴染みさんらしき
男性のグループ。


もう既に、宴たけなわのよう。



まずは、ビール。
キリン。


どこもそうだが、こういう店は、
お品書きなど、ない。


軍鶏の鍋だけ。




と、いったところで、今日はここまで。


また明日。






墨田区両国1丁目9−7
03-3631-7224