浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭フランスへ行く その27

引き続き、リヨン。

[Le Cafe Des Federations、(ル・カフェ・デ・
フェデラシオン
、連盟)]にきていた。

やっぱり、ここもリヨン名物、ブション。

もう一度、アミューズ。

三皿。

昨日書いた左、リヨン風サラダ (Salade Lyonnaise)があって、
上、レンズ豆のサラダ(Salade de Lentilles、ランティユ)。

レンズ豆に、香味として赤玉ねぎ、か。
これもまた、ブションの定番とのこと。
味付けは酸味と辛味、で、さっぱり。
これは、ワインビネガーとディジョンマスタードのよう。

レンズ豆というのは、原産はやはりメソポタミアというが
なんでもオーベルニュ地方の、ル・ピュイ(Le Puy)地区と
いうところの特産で例のAOP(原産地名称保護)認定とのこと。
ここは、リヨンより南で、車で2時間(140㎞)のところと。

右、ソシソン・ブリオシェ (Saucisson Brioche)。
内儀(かみ)さんは、メインにソシソン・ショーを頼んでいる
ので、若干のかぶり。
ソシソンというのは、リヨン名物の豚肉の粗挽きソーセージ。
で、これをブリオッシュの中に入れたもの。
これも、やっぱり、ブションの定番のよう。
添えてあるソースは、最初のポーチドエッグのウッフ・アン・
ムレットに近い、赤ワイン系の甘めのもの。

一見簡単そうな料理だが、こういうものがいちいち、うまい。
やはり、伝統のもので、料理として成熟、完成されている、
といってよろしかろう。

さて、いよいよ、真打登場。

これが!。
Tete de veau、テット・ド・ヴォー、仔牛の脳味噌。

付け合わせは、ポテトに、にんじん、ポロねぎ。
ソースは、ケッパー、パセリなどハーブ、エシャロットを
効かせた酸味のあるピリッとしたもの。「ラヴィゴット・
ソース(sauce ravigote)」というよう。テッド・ド・
ヴォーにはこれと決まっているよう。

味付けは、塩ゆで、という感じであろうか。薄味。
付け合わせの野菜と煮ている、のか。
薄味なので、ソースはやはり必ずつけたくなる。

結論からいうと、決して、まずくはない。
クセがない、ともいうが、それなりには、ある。
しかし、むしろ、うまい、かもしれぬ。
半生というのではなく、火はちゃんと通っている。
二種類の質が違うものがあって、牛肉のコラーゲン、
軟骨質のものと、もう少し歯応えがあり、肉に近い味と
食感のもの。だが、なにかに例えられぬ独特なものである。
どちらも、柔らかではあるが。

しかし、やっぱりこれ、だめ、で、ある。
どうしても、想像してしまう。

なにも、こんなところを食べなくともよいではないか、と。
他にもこの料理にはたくさんのトピックスがあるのだが、
どうもグロいのでやめる。
ただ、これもフランスの食文化である。

内儀(かみ)さんの、Saucisson chaud、ソシソン・ショー。

「ショー」はフランス語で「温かい」。
言葉としてソシソン自体がソーセージ(の名前)で、
温かくして出すと、ソシソン・ショーという料理名になるよう。
(ただ、ソシソンにはサラミに近い乾燥させたものもあるよう。
出会わなかったが、これもリヨンで定番のよう。
英語のソーセージは、このソシソンが語源といってよいよう。)

器に入っているのは、じゃがいものピューレ、いや、やはり
マッシュポテトというのが合っているか。

ソースはやっぱり、なん回も出ている赤ワイン系の
もの、同じものかどうかわからぬが、近いもの。
(料理によって、粘度など、濃さを微妙に変えているか。)

ちなみに、アミューズで出てきたブリオッシュに
入っていたものとソシソン自体は、同じもの、と、
思われる。

まあ、これもなんということはないが、やっぱりうまい。
これは、テット・ド・ヴォーと、比べるとそうとうに、
安全牌。

次。だが、デザート。

これ、シャーベット。
いちごと、ラズベリー系のソース。
さわやか。

そして、これ。

どちらもチーズ。
ちなみに、左のピンクのものは、キャンドル。

中央は、見た目、カマンベールに近いが、Saint-Marcellin、
サン=マルスランというよう。カマンベールよりも柔らかく
より奥深い味。サン=マルスランは街の名前で、このチーズの
原産地。リヨンの南東80㎞ほどのところ。フランスではスーパー
にもある一般的なもの。

そして、右の器。
これも、ブション名物。
Cervelle de canut、セルヴェル・ドゥ・カニュ。
アミューズとして出ることもあるよう。

直訳すると、絹織物職人の脳味噌。canut、カニュがリヨンの
絹織物職人、セルヴェルが脳味噌。
グロく聞こえるが、先ほどの仔牛や仔羊の脳味噌料理は、
最初は上流階級の料理で職人は食べられなかった。それで、
トロっとしており食感が似ているのでこれで代用した、と
言われているよう。(先の、テット・ド・ヴォー、ではなく
焼いた料理のあるようで、それがトロっ、らしい。)

これ、チーズ料理。ベースはフロマージュ・ブラン。
これ自体はフランス全土にある一般的なフレッシュチーズ。
トロトロでヨーグルトに近い。
味付けは塩、胡椒、シブレット、にんにく、エシャロット、
赤ワインビネガーなど。ディップにもなる。

名前が妙だが、さわやかで、うまい。

いよいよ、デザート。

下が内儀さんの、mousse au chocolat、チョコレートムース。
上が、私の、洋梨の赤ワイン煮、poire pochee au vin rouge。

以上、ここまで。
会計は、89ユーロ。

トレビアン、メルシー。

ご馳走様でした。


つづく

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その26

引き続き、リヨン。

市庁舎の前、テロー広場について書いていた。

中世にはここがリヨンの北の端で市壁と濠であったと。
(欧州の街を守るための壁は、城壁と日本語では書かれることもあるが、
城ではなく街を守るためのものなので、学術的にも市壁が正しい。)
で、それを当時、16世紀初頭(ルネサンス期)国王ルイ12世が
街を拡張するため、北へ移動させた、と。

注意したいのは、リヨンの街について、国王が口を出している、
ということ。
これはフランスにとって、リヨンは単なる地方都市ではなく、
国にとって重要な都市であったということに他ならない。
このあたりが、やはりリヨンの歴史は、フランス史と不可分であると
いうことである。

できるだけ、簡潔にまとめてみよう。

リヨンは、15~16世紀、
1.イタリア戦争の「最前線基地」だった。
2.王室の財政を支える「経済・金融の首都」だった。
3.フランス最古の「郵便網の起点」だった。

おっと。フランス史どころか、ヨーロッパ史になってしまう。
1.この頃、フランス王国は、神聖ローマ帝国・スペイン王国
(ハプスブルク家)とイタリア領有をめぐって戦っており、
南仏、イタリアに続く交通の要衝であるリヨンは兵站の起点として、
王宮や政府機能が一時移転する副首都といってよいほどの都市で
あった。

2.既にこの頃、リヨンは国王から絹織物の独占製造権を
与えられていた。それで、リヨンにはヨーロッパ中から
富と銀行家(フィレンツェのメディチ家など)が集まり、
フランス最大の金融都市となっていた。フランス国王は戦費調達、
国家運営のため、リヨンの銀行家から借り入れる必要があり、
国としてリヨンを保護、管理しなければならなかった。

3.パリ、リヨンが郵便網の幹線で、リヨン起点で、スペイン
(マドリッド)、イタリア(ローマ、ミラノ、ヴェネツィア)などに
騎馬、馬車による郵便が出ていた。それで、リヨンは一大郵便基地。
24時間体制で多くの駿馬を用意し、伝令用の人員を揃え、といった
体制を備えるため、王室直轄に近い形で都市が整備された。
当時はスペイン、イタリアと南方面との往来が重要で、パリよりも
リヨンをハブにするのが最適であったのであろう。

と、まあ、15~16世紀、ルイ11、12世の頃、こんな感じで
あったよう。なるほど、リヨンの重要性はよくわかった。
またほんの断片ではあるが、フランスの歴史も、おもしろい。

さて、市庁舎、Hotel de Ville、オテル・ド・ヴィルであった。
アップ。

建築は、最初は1645年~1651年。その後火災にあい、ルイ14世の
お抱えでヴェルサイユ宮殿などを設計した建築家によって1703年
再建・改修が行われた。様式はバロック古典主義、と。

ヨーロッパでは多いが、今も現役の市庁舎として使われている。
(最初に裏を見たが、建物として実際奥が長く、けっこう大きい。)
現役なので中の見学は制限されている、よう。

中央の騎馬像は、アンリ4世らしい。当初はルイ14世だったらしいが、
案の定、革命時に完全に叩き壊された。革命後再建されたがこの時、
フランス史上最も好感度の高いアンリ4世になったという。
アンリ4世はルイ14世の祖父で、宗教戦争を終わらせ、国民を
いたわった王。

予約の時刻が来て、[Le Cafe Des Federations、(ル・カフェ・デ・
フェデラシオン、連盟)
]に向かう。

やっぱり、ここもリヨン名物、ブション。

テロー広場そばの、路地裏で、こんな感じ。
10人程度であろうか、既にそこそこの人数が待っている。

店は隣と、細い通りを挟んで前、と、三軒に分かれているよう。

外に出されているメニュー。

さて、フェデラシオン、連盟、なんでこんな店名なのか。
ここの創業は1872年(明治5年)。超老舗。ナポレオン3世の治世
(1852年~1870年)は一般の公開集会が厳しく制限されていた。
市民が人道的・文化的な親睦や情報交換を行う集まりを
「Federations(連盟)」と称して集まったという。
これにちなんでいるよう。

19時半、開店とともに、入る。

名前を言うと、隣、といわれる。
くっついているが、入口が別で、右隣り。

入って、再度名前を言って、テーブルに案内される。

続々と埋まり、狭い店内、予約だけで満席か。

席につく。

やっぱり、ビール。

エビアンと生ビール。生ビールはpression、プレッション、
Blonde Legere。軽いブロンド。

最初の日のブション同様、アミューズがお決まりできて、
メインだけ頼む。

もちろん、Tete de veau、テット・ド・ヴォー、仔牛の頭、
正確には、脳味噌。
と、内儀(かみ)さんは、無難に、Saucisson chaud、ソシソン・ショー、
リヨン名物の太いソーセージ。

まずは、アミューズでこれ。

あー、また出た。一昨日も食べた。
リヨンのブションでは、お決まり、ということか。
Oeufs en meurette、ウッフ・アン・ムレット。
ベーコンの入った赤ワインソースにポーチドエッグ。
ここのアミューズの1品目はこれに決まっているよう。

店ごとに、多少味が違うのであろうが、まあ、慣れない舌では
ほぼ同じ、だが、むろん、うまい。
見た目は、日本の例のデミグラスソースに酷似しているが
うまみは濃いが、もっとさらっと、さっぱりしている。

アミューズ、次。

三品。

左、リヨン風サラダ (Salade Lyonnaise、サラダ・リヨネーゼ)。

リヨン風サラダというのは、大きめのクルトン、同じくらいの
ラルドン(ベーコン)、葉っぱは、先がギザギザしている、chicoree
frisee(シコレ・フリゼ)、日本では英語のエンダイブと
いっているもの。ちょっとにんにくのきいたドレッシング。
葉っぱよりも具の方が多いというのが、おもしろい。
これは入っていないが、ポーチドエッグが入ることもあるよう。

上、レンズ豆のサラダ / レンズ豆のキャビア風 (Salade de Lentilles /
Caviar de lentilles)。

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その25

引き続き、リヨン。

大聖堂から戻ってきた。

午後は、アパートの部屋で、お休み。

夜、やはり早めに出る。

行くレストランは[Le Cafe Des Federations、(ル・カフェ・デ・
フェデラシオン
)直訳すると、連盟(同盟)のカフェ]。

リヨンの街の食堂、ブション、で、ある。
1872年創業。我が国だと明治5年。凄い。
リヨンを代表するブションで、人気店、と。

書いたように、今日は脳味噌が目的。
場所は、午前中に行った、ベルクール広場よりも少し北。

リヨンの街は、書いたように最初はソーヌ川の西の丘から
始まり、丘の下、そして川を渡って、ベルクール広場のあたり、
さらに、次は、北へ広がっていったよう。
近くにリヨン市庁舎、オペラ座などもある。
やはり、ここもリヨンの歴史的には中心といってよいだろう。

リヨンについて歴史を含めてもう少しだけ書こう。
この街というと、誰しも思い浮かべるのは、絹織物、で、あろう。
この市庁舎から、北、時期は16世紀あたりから。
フランソワ1世の奨励によってイタリアから技術が導入され、
絹織物の街として始まったよう。
全盛期は19世紀。 ジャカード織機の発明により生産性が
爆発的に向上したという。
この頃の絹織物は、さらに北側のクロワ・ルース、La Croix-
Rousseの丘に数万人もの「カニュ(絹織物職人)」が集まり、
ヨーロッパのテキスタイル産業の中心地として黄金期を迎えた
という。

この頃のリヨンは、実は、我が国とのつながりも大きかった。
幕末、ご存知のように開国となり、その輸出品目の筆頭が、
そう、絹糸であった。
当時、19世紀半ばのヨーロッパでは、蚕の伝染病が流行り、
リヨンの絹織物産業も大きな打撃を受けた。これを救ったのが、
日本の絹糸であったのである。日本の蚕は病気に強かったらしく
蚕そのもの輸出されていたらしい。
明治の養蚕は、八王子、埼玉、富岡製糸場で有名な群馬、
長野県の諏訪地方などなどで行われ、横浜から生糸として輸出
されたわけである。日本から技術者がリヨンに派遣され学ぶ。
また、リヨンから技術者が我が国を訪れ技術を教える、という
関係であったよう。
それで今も、横浜市とリヨン市は姉妹都市関係にあるよう。

あの、元祖断腸亭先生、永井荷風氏も、この街にいたことが
あるのはご存知であろうか。作家生活を始める前、親の指令で
横浜正金銀行という当時の一流銀行に押し込まれる。(系譜
としては、横浜正金銀行は、その後の東京銀行、三菱UFJになる。)
1907年(明治40年)に荷風は渡仏し、横浜正金銀行リヨン支店の
行員として約8ヶ月間滞在していた。
まあ、こんなことなので、まともに仕事をしていたのかどうか、
わからぬが、ただ、おかげで「ふらんんす物語」などの初期作品が
生まれたわけであるが。
ともあれ、この頃日本の銀行の支店がリヨンにあったのは驚き
であろう。もちろん絹糸、絹織物のつながりもあったので
あろうが、リヨンにはヨーロッパでの金融上の重要性が大いに
あったということである。

化学繊維の誕生とともに絹織物産業は次第に衰退するが、
繊維産業は日本でもそうだが、基本的に、染料の技術から
化学系のメーカーになっていく。
リヨン南部からローヌ川沿いに広がる地域は、ヨーロッパ
最大級の化学・石油化学コンビナート「[Vallee de la
Chimie(ケミカルバレー)]になっている、と。
また、同時に化学の技術は医薬品にも発展していく。
フランスの医薬品メーカー、サノフィもワクチン部門の発祥が
リヨンで、リヨン周辺に多くのサノフィの拠点がある。
医薬品産業はバイオ系へ発展。また、ロボット工学、
IoT、AI、デジタル技術のハブにもリヨンはなっているよう。
また、意外なのはゲーム産業や3Dアニメーションの先進都市
でもあり、大手ゲーム会社(アトリエ、エレクトロニック・
アーツ等の拠点)や開発スタジオもあるよう。

まさに、歴史のある絹織物から現代産業に見事に生まれ変わった。
なかなか産業構造の変革は難しいが、珍しい成功例かもしれぬ。
技術的なつながり、産官学の強い連携などもあったようだが、
意外に、ポールボキューズや、ブションなど美食の街という
ブランディングも役立った。食い物がうまい街に誰しも
住みたかろう。

もちろん、こうした古くからの絹織物、現代の先端産業までの
リヨンだが、工業、産業都市という顔だけでなく、食に現れて
いるように、ブレス鶏、じゃがいも、ポロネギ、サラダ菜、
レタス類などノーマルな野菜を含む豊かな農産物、それに例の
川魚、(私は呑まないが)ワインは、北隣がお馴染みのボージョレ、
南がローヌなど銘醸地に挟まれている、と。

リヨン、そんなバランスが取れた豊かな大都市。

メトロ、Hotel de Ville L. Pradel、オテル・ド・ヴィル=ルイ・
プラデル駅にやってきた。ここへは、最寄りトラム駅、サント=
ブランディーヌから乗って、ペラーシュでメトロA線で四つめ。

そして、これが、そのオテル・ド・ヴィル。

オテル、Hotelだが、ホテルではなく、Hotel de Villeで、
市庁舎。リヨン市庁舎、の裏。反対側がリヨンオペラ劇場。
ここの劇場は新しいようだが、フランス国立。
(フランス語のhotel、は、例の、palais(パレ)に近い意味も
あるよう。だが、使い分けがちゃんとあり、格が高い方がpalaisで、
文字通り、ベルサイユだったり、エリゼ(大統領府)など、最高格に
使われるといってよいよう。対して、貴族の館は、hotel、と。
やはりフランス語、イタリア語よりも理屈っぽい。)

市庁舎には赤いリヨン市の紋章が見える。

これ。

これが、リヨン市の紋章。ライオンがいる。これはほんとは銀色。
なにか由来があるのかと思うと、Lyon(リヨン)とlion(ライオン)が
フランス語で発音が同じで、なんのことはない、ただの語呂合わせ、
洒落、らしい。上の三つの黄色いのは、フランス王家の象徴の黄金の
百合、とのこと。革命期とナポレオン期に外されたこともあったが、
後年20世紀初頭に戻されたよう。
元来は、やはり中世、リヨン伯、という貴族が封建領主で、実力者
リヨン大司教とたびたびもめていたようだが、そのリヨン伯の紋章、
で、あったらしい。

正面にまわってみる。

広場は、テロー広場、Place des Terreaux。
かなり縦長に広い。
ここは、左側に噴水がある。

このテロー広場広場には、ちょっとおもしろい由来があった。
テロー、Terreauxというのは、フランス語で培養土、という。
語源はラテン語の「溝」や「土塁」の「Terralia(テラリア)」
らしい。ここは、16世紀以前はリヨンの街の北の端で、
街を守るための大きな市壁があり、その市壁に沿ってローヌ川と
ソーヌ川を結ぶ深い水濠(みぞ)が東西に掘られていた、と。

やはり街は、南のベルクール広場から北へ広がっていった。

16世紀初頭、フランス国王ルイ12世が町を拡張するため、この市壁を
さらに北にある「クロワ・ルースの丘」へと移動さた。

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その24

引き続き、リヨン。
リヨン大聖堂にきていた。

大聖堂の建築上の特徴をみていた。
フランスでは宗教改革(戦争)でカトリック教会が破壊、略奪を
受けたという歴史があった。

内容は違うが日本でも明治初年に廃仏毀釈というのがあったのを
思い出す。プロテスタントは教会のキンキラの装飾、豪華な
彫刻などを偶像崇拝として攻撃の対象にしたよう。

ミサもそろそろ終わる。
ミサは執り行う司祭達や侍者が中央を通り、聖歌とともに
聖堂正面の玄関外まで行列をして出て、終わる。
これも、世界中同じ。

そういえば、またまた、余談で恐縮だが、なぜ、司祭たちが
外まで出るのであろうか。教会側の人なのに。信者はこの
時点では席にいる状態。信者側が、送り出すという感じになっている。
不思議ではないか、と。

これ、ちょいと、AI君に聞いてみたら、ちゃんと理由があった。
信者ながら知らなかった。

司祭は、退場の直前、閉会の辞のように、日本語だと私の記憶だと
「行きましょう主の平和のうちに」と、言っていた。(今も
この通りのよう。)その後に、信者は「神に感謝」と唱和する。
これは、元があって、やはりラテン語で、Ite, missa est、
イテ、ミッサ・エスト(行きましょう)であったらしい。

ミサというのは、そもそも神学上、派遣、という意味がある
らしい。先のラテン語の、missa、がそもそもミサ、らしい。
つまり、神の代理として、神の教えを広めるために派遣される、
のがミサであると。

それで、ミサの最後に、司祭は、神の教えを広めるために、
一緒に外へ行きましょう、と信者を導く、いうことを示して
いるらしい、のである。それで、外まで出る、と。出ることに
意味があった。ほうー。知らなかった。まったく勉強になった。
「行きましょう。主の平和のうちに」の司祭の言葉の意味は、
教わった記憶もないし、申し訳ないがなんとなく決まり文句として、
聞き流していた。さあ、行くんだ!、で、あった。

さて。
その後、司祭達は、周囲の信者達と談笑しながら、中へ戻ってくる。
こんな風景もおそらく、世界中どこの教会でも同じ。
格式高いリヨン大聖堂も、あまりにも変わりがないのがむしろ
不思議なくらい。これが今のカトリック教会といえるのかも
しれない。あー、よいものを見せていただいた。

さて、ここでもう一つ、見るべきもの。

祭壇左。

こんなものがある。
これ、天文時計、Horloge astronomique、オルロージュ・
アストロノミックと、いうらしい。
初めて見たかもしれぬ。
装飾、デザインも凄い。ゴージャス。そして、ピカピカ。

これ、もちろん時計、時刻を表示する。

それ以外に、星の動きとカレンダー。太陽が今どの星座
(いわゆる黄道十二星座)の位置にあるか、もちろん日時。
これに、月の満ち欠け、月齢。
そして、宗教上の祝日。カトリックで毎年日付が変わる、
復活祭の日にちを自動で計算して表示する永久カレンダーも
備わっている。

さらに、いわゆるからくり時計。一日数回、決まった時刻に
なると、時計の上部にある人形たちが一斉に動き出し、
受胎告知の場面を演じる。(この時、12時近かったが、
待てばよかった。)

フランス国内で最も古い、稼働する天文時計の一つ。
ちゃんと、動いている。

もちろん、機械仕掛けで、電気などは一切使っていない。

初代は14世紀にできていたらしいが、先に書いた
宗教戦争時に襲われて破壊、略奪される。
17世紀に、リヨンの時計職人によって、再建。
これが現在のもののベースになっているよう。

そして、さらにフランス革命時に王家に関わる紋章など
はぎ取られる被害に遭う。

戦後になって、フランスの時計修復工房によって
メンテナンス、カレンダーの再設定などされた。
またその後も、定期的にメンテナンス、調整をされて、
現代まで稼働し続けている、と。それで、ピカピカ。
17世紀のものとはいえ、これは凄かろう。

ここまでで、大聖堂の見学は終了。
ミサも見学できたし。大満足である。

やはり、根気がない。
もういいか、一度帰ろう。夜もあるし。

まあ、後から考えたら、この背後の丘、フルヴィエール
Fourviereの、バシリカ・ノートルダム、さらにローマ時代の
遺跡を多少でも見るべきであったが。

リヨンというと、フランスでもあまり日本人が観光にくる
場所ではないかもしれぬが、古代ローマ時代からの中心
都市であり、歴史的に観るべきものは実はたくさんある、
ということである。まあ、探したらもうきりがない。

ローマ時代も歴史としてはむろん大切ではあるが、正直、
私とすればキリスト教以前は、多少プライオリティーは下がる。
いや、ほぼ勉強したことがないので、まるでわからない、
白状すれば、そういうことではある。

大聖堂からボナパルト橋の通りに戻ってくる。

このT字路突き当りが、Vieux Lyon - Cathedrale Saint-Jean
という駅。
Vieux(ヴュー)、がニースにもあったが、古い、英語でold。
つまり、古いリヨン、リヨン旧市街のこと。Cathedrale?
Saint-Jean、は、カテドラル・サンジャンで、サンジャン大聖堂
(リヨン大聖堂)。

この駅は、メトロとケーブルカーの二つの駅。
メトロはD線、ケーブルカーは一駅でフールヴィエール
Fourviere、丘の上まで。バシリカ・ノートルダムの前。

帰ることに決めたので、メトロD線で一駅乗って、
Guillotiere Gabriel Peri(ギヨティエール=ガブリエル・ペリ)」。
ここで地上に出てトラムT1に乗り換え、アパート最寄りの
Sainte-Blandine、サント・ブランディーヌまで。

ここで、ちょっと注意。
Guillotiere Gabriel Peri(ギヨティエール=ガブリエル・ペリ)の
トラム、地上駅とその周辺。昼間だが、ここかなり危なかった。
リヨンでも珍しい場所だが有名なよう。
10代後半~20代前半の、不法移民の孤立した少年達らしいが、
徒党を組んで昼間でも騒いでいた。密輸したタバコ(薬物も)を
売っている。トラムを待っている数分の間に、私は無視をしたが、
声を掛けられた。無視をしたらすぐに立ち去って行ったが。
できればここは避けた方がよいが、来てしまったら、へたに
関わらぬよう、やはり無視するのがまずよい、と。
スリ、ひったくりも多く、スマホを手に持つのも要注意。
少年達なので、フランスでは逮捕等取り締まりがしずらく、
当局も対応に苦慮しているらしい。
リヨンにこられる方は、ご注意を。

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その23

引き続き、リヨン。
リヨン大聖堂にきていた。

偶然、見ることができた、大聖堂でのミサ。

当然、皆様は知る由もないと思うが、ミサを見ていて気付いた。

どうも、ここのミサは、特別であった。
なにかというと、昔の形のミサであったのである。
カトリックのミサというのは言葉は各国語だが基本的な内容や
式次第、所作などは同じ。全世界で統一されている。

が、これが違うのである。
ミサを執り行う司祭は、祈りなど儀式部分は、参列者側を向かず、
背後の十字架、祭壇に向かい、言葉はラテン語を使う。
いや、正確にはラテン語かどうかはわからぬが、少なくとも
フランス語ではないというのは、わかった。
参列している信者への説教や、福音(聖書)の朗読は、
その国の言葉、フランスだったら、フランス語で、参列者の
方を向くのだが。見ていて、これに気付いたのである。

カトリック教会は、1960年代に、世界的にこの形式を変えて、
今の、すべてを参列者側を向いて、その国の言葉で行うような
スタイルになった。
私は、子供の頃は、毎週日曜日に親に連れられミサに参列して
いたのだが、この頃は、既に日本も変わった後で、昔の形式を
見たこともなかったが、父親からであったか、昔はそうであった
と、聞いたことはあった。

が、それ以外、クライマックスの聖体拝領だったり、ほぼわかる
ミサの内容であった。ただ、このミサを主として執り行っていた
司祭がリヨンの大司教様であったのかは、顔もわからぬので、
わからないが、先のラテン語を使う昔の形式でもあり、数人の
神父様で行われる、格式のあるものであった。
むろん、大聖堂の荘厳なパイプオルガンと聖歌も。

当然ながら、このような歴史のある大聖堂は単なる観光地や
文化財でもなく、本来の目的である、生きた祈る空間である
ことをしっかり感得することができたのは大きな収穫であった。
(信者ではない方々も教会を見学する場合はこのことをよく
理解し、リスペクトしてほしいわけである。)

調べると、フランスでも、普通は先に書いた世界共通の、母国語で
参列者の方を向いて行っているようで、やはりあえて、リヨン
大聖堂では昔の形のミサを行っているよう。

リヨンはフランスの中のカトリック教会として最古で最高の
格式を持っているようなのである。

なぜかというと、キリスト教の最初期(2世紀)に、フランスで
最初にこの地に初代教会が創設されたという。

ここはどうしても当時のフランスのことを書かなければいけない。

紀元前43年、古代ローマの属州ガリア(Gallia) 三州の首都
「ルグドゥヌム(Lugdunum)」として、リヨンは始まっている。
ガリア三州というのが、広大な今のフランス全域。フランス王国の
前の話である。先に書いた丘の上のローマの遺跡はこれの跡。

そして、2世紀にはガリア地方で最も早く「ルグドゥヌム(リヨン)」
にキリスト教が伝わったのだがローマ帝国ではまだキリスト教を
認めておらず、177年には多くの殉教も経験したよう(リヨンの殉教)。

こうしたリヨンでのカトリック教会の歴史があり、1079年にローマ
教皇より、リヨン大司教に対して「ガリアの首座大司教(Primate
of the Gauls)」という名誉称号が与えられた。これは、フランスの
カトリック教会において、パリなどよりもリヨン大司教が「すべての
司教たちの筆頭」であることを意味している、と。

現代では、カトリック教会における名誉職で実質的に大司教の
世の中への政治的な権力はもちろんないが、中世においては裁判権や
王室への影響力などがあったわけである。
ともあれ、リヨンの大司教様は、相当に偉い、のである。

さて、もう一度、聖堂内部の写真。

建築についても見ていかねば。

最初に、ロマネスク様式と、ゴシック様式の折衷と書いたが、
ロマネスクの方が古く、ゴシックの方が新しい。
12世紀に建築が始まり、15世紀に完成したわけだが、その間に
技術が進歩し、また、流行りも変わったという。
具体的には祭壇のある奥から作り始めたらしく、このあたりの
天井の半円アーチや厚い壁がロマネスクとのこと。
そして、入口、身廊側、高さ32.5メートルの交差リブヴォールト
と呼ばれる天井の骨組みや尖頭アーチを持つ、開放的なゴシック
様式、とのこと。

そして、最後にできた、正面ファザードはflamboyant、フランボワイヤン
(火炎)のゴシック様式という。

手すりや、窓の上部にある三つ葉のような造形などがフランボワイヤン
といっているもののようで、特徴的、とのこと。

また、ここにちょうど左下に飛び出しているもの、雨どい。
これも特徴的らしい。
「ガルグイユ(Gargouille)(英語でガーゴイル)」の雨どいと
いうらしいが、ちょっと河童のような顔のガーゴイルの形を模していて、
壁から飛び出しており、ここから雨水を流す。

そして、中段中央。
ここ、内側からも写真を撮ればよかったが、バラ窓、と呼ばれている
らしい、ステンドガラスのはめ込まれた大きな窓。
中央にキリスト、周囲に聖人や天使、そしてリヨンの初代司教などが
配置されている。

ここのステンドガラスは14世紀までのものだが、この頃は、イタリアよりも
フランスの方が、ステンドガラスの技術は進んでおり、最高峰のもので
あったという。ガラスの技術というと、ルイ14世が、イタリアベネツィア
から技術者を引き抜いたと、聞いていたが、これは17世紀後半でずっと後。
ルイ14世が、例のベルサイユの鏡の間の大きなガラス(鏡)をこれで
作ることができたというが、この時、ヴェネツィアが進んでいたのは
透明で大きな板ガラス(鏡)を作る技術、と。なるほど。

余談だが、日本は幕末まで、ガラスの鏡はなく、庶民は古墳時代からの
金属の板を磨いた銅鏡を延々と使っていたわけである。落語などにも
出てくるが、くもった銅鏡を磨き(研ぎ)にくる職人がいたのである。
欧州は技術を出さなかったというのもやはりあったようだが、一部
ほんの小さな鏡を作る技術は安土桃山期に一度入ってきたらしく高級
手鏡として存在はしていたようである。ただ、やはり、大きな板ガラス
(鏡)を作る技術は入ってこず、大きな姿見のようなものは幕末まで
存在しなかった。今は当たり前に存在するガラスの技術、おもしろい
ものである。

ともあれ。
この頃の、フランスのステンドガラスは、この建築現場近くに工房を
設けてむろん手作業で作られていたらしく、ガラスに金属成分を
入れて発色させていたとのことで、後世の後から色を塗ったものと
違って、色褪せがない、らしい。
これも、へー。
ただ、この技術は、フランスでは宗教改革の影響などがあって、
ステンドガラス自体が流行らなくなり、フランス国内でも一度
衰退したという。

イタリアではあまり聞かなかったが、フランスに入ると、宗教改革、
さらに内戦といってよいような宗教戦争、という言葉まで出てくる。
ご存知のようにカトリックとプロテスタントの戦いであるが、
このリヨン大聖堂も16世紀にプロテスタント、ユグノーの軍に
占領され、ステンドグラスも破壊されたよう。今あるものは、
奇跡的に破壊を免れたものと19世紀以降に一度滅んだ中世の技術を
科学的に研究・復活させて大修復されたものらしい。

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その22

引き続き、リヨン。

今日は、昼間は、旧市街へ。

メトロで、ベルクール広場(Place Bellecour)、にやってきた。
かなり広い広場。日曜の午前だが、人も少ない。

中央に、騎馬像。

誰?。

大方、想像はできよう。
そう、太陽王ルイ14世。

意外に、フランスで、ルイ14世だったり、ナポレオン・ポナパルト
だったり、現代でもそれなりに?、いや、ちゃんと尊敬されている
のである。いろいろあったが。強い英雄はフランス人は好きなよう。

もう少し、ちゃんと書くと、ルイ14世は暴君、独裁者、革命で倒した王、
ではあるが、彼が残した、文化、芸術については、フランスの
誇りである、というのが、現代のフランス人の感覚のよう。

そして、これ。

なにかおわかりになろうか。
これ「星の王子様」(Petit Prince)とサン=テグジュペリの像。
広場の脇になにげなくある。そう。リヨンは、サン=テグジュペリの
生誕の地。この像ができたのは、2000年と古くはない。

だが、なんとなく寂しい感じ。
日本では人気だが、こちらでは、そうでもない?。

リヨンという街は、最初はこの西、ソーヌ川を渡り、さらに
丘になっているが、その丘から始まっている。
実は、その丘の上が、ローマ時代の遺跡として残されている。
リヨンはその西の丘から始まり、丘の下が中世、その後ソーヌ川を
東に渡って、ベルクール広場のあたりに広がっていった。
そんな歴史のよう。

このベルクール広場は12世紀、リヨン大司教が所有する農園の
呼び名「Bella Curtis(ベラ・キュルティス)」が由来らしい。
当時はまだこのあたりは畑であったわけである。

この広場は実際のところ長らくリヨンの中心。この広場の歴史を
みるだけで、リヨンの歴史、いや、リヨンの最初に書いたように、
フランスの歴史を語らないと、いけなくなる。宗教戦争時代、
ルイ14世時代、フランス革命時代、ナポレオンと第三共和政時代、
近世、と、都度、様々なドラマをこの広場は見てきた。
このルイ14世の騎馬像だけでも様々なことがあったよう。まさに
フランス史そのもののような。まあ、今は、言葉だけを出して
次に行こう。

星の王子様の像から、西のソーヌ川を目指す。

すぐに橋に出る。立派な石橋。

これは、Pont Bonaparte、ボナパルト橋。
もちろん、ナポレオン・ボナパルト。
この橋のことを書くだけで、またフランス史を書かねばならなく
なるのでやめるが、ボナパルトという名前が付いたのは戦後らしい。
二次大戦で破壊され、1964年に再建され、その時にリヨン
市議会によって付けられたよう。
先に、ルイ14世について触れたが、フランス国民は今も複雑な思いを
抱えながらも、ナポレオンも尊敬と誇りの対象ではある、よう。
だが、リヨンはそれ以上にナポレオンとの特別な関係があったようで
「リヨンの人々よ、私はお前たちを愛している(Lyonnais, je vous?
aime、リヨネ、ジュ ヴ ゼーム)」とナポレオンは言ったとか。

上の写真の角度は、西、対岸の丘を見ている。
丘の上に見えているのは、ノートルダムという聖堂だが
これは、リヨン大聖堂ではない。その右下手前に見えている
角張っている十字架の建物が、リヨン大聖堂。

グーグルマップは、ノートルダムに大聖堂と付けているが、
私は、大聖堂は、cathedrale、カテドラルの訳としたい。
意味は、その地域(街など)を統括する司教様のいる司教座聖堂。
フランス語でもイタリア語でもこれは統一されている。
それで、日本語でもブレずに明確に定義したい。大きい聖堂が
大聖堂ではない。

ちなみに、日本のカトリック教会の大聖堂で有名なのは、東京
目白にある丹下健三設計の巨大な聖堂、名前は、東京カテドラル
聖マリア大聖堂。カトリック東京大司教区の司教座聖堂である。
カテドラルと、大聖堂がだぶっている。ただ日本のカトリック
教会ではカテドラル=大聖堂と一応正式に定義しているよう。
どうもこれは、東京カテドラル、という言葉が通称として長年
使われ定着しており、こんなことになっているよう。
さらに蛇足ながら、日本の大司教様のいる大聖堂は他に二つ、
大阪梅田教会、長崎の浦上天主堂。さらにその下の司教様のいる
教会は16あって、ここまでが大聖堂ということになる。

ともあれ、グーグルマップのリヨンノートルダム教会の日本語訳に
大聖堂をあてるのは、限りなく誤訳に近かろう。

ただ、だからといって、ノートルダムの方が価値がないかというと、
そんなことはない。フルヴィエール・ノートルダムバシリカ
(Basilique Notre-Dame de Fourviere)というのが正式名称。
この、バシリカというのが、ローマ教皇によって与えられた
格のようなもので最高格の聖堂呼称。この聖堂は、またまただが、
フランス、リヨン、あるいはカトリック信仰にとって歴史的に
いくつもの重大なドラマを経験した大切な聖堂なのでこういう格が
与えられているよう。
実は、ここへは行かなかったので、わからないのだが、建築的にも
価値あるものであったよう。見ておくべきであった。

閑話休題。

川下側。

橋を渡って、突き当りを右。

これがリヨン大聖堂。

Cathedrale Saint-Jean-Baptiste、サン=ジャン=バティスト大聖堂が
正式名称。サン=ジャン=バティストで、洗礼者ヨハネ。
ヨハネが、フランス語ではJean、ジャン。

1175年(または1180年)の着工、1480年に完成。
毎度お馴染みだが、ヨーロッパの教会は完成に300年も掛かるのは
そう珍しくはない。建築期間が長いので様式はロマネスクから
ゴシックに変わり、二つの折衷という。

中。

実は、この時、しばらくして気付いたのだが、日曜日の10時半、
まさにミサの最中であった。(ミサ中でも入れるのである。)
まったくの偶然。まあ、世界中のカトリック教会で日曜の午前中は
ミサをやっているので私もよく考えれば、予想が付いたはずだが。
今まで、イタリア、スペインと教会もいくつも行ったが、
こうして実際のミサに出くわすのは、初めて。

ともあれ、カトリック信者の端くれとして、歴史ある、リヨン
大司教様の大聖堂のミサを見ることができるのは、僥倖と
いってよかろう。

むろん、単なる拝観者で、参列していたわけではないが、
内儀(かみ)さんとともに静かに最後まで立ってここにいた。

 


つづく

 

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断腸亭フランスへ行く その21

引き続き、リヨン、[ポール・ボキューズ ローベルジュ]。

会計をして、タクシーを呼んでもらった。

特に、問題もなくリヨン市内のアパートまで着いたのだが、
またまた、支払いでトラブルが勃発した。

結論からいうと、こちらの無知であったのだが。
ドライバーのお兄ちゃんには手間を取らせてしまった。

なにかというと、請求が、行きの3倍にもなっていた。
えー、そりゃ、高いだろう、と。

お兄ちゃんも英語は苦手のようで、散々、翻訳アプリで
行ったり来たりした挙句、あきらめて、払ったのだが。
(もちろん、カードは、可だったが。)

これ、なにかというと、タクシーではなく、日本でいうハイヤー
で、値段が全く違っていた、ということ。
[ポール・ボキューズ]で呼ぶと、そういう車が来る。
車も、ハッチバックだが、ベンツであった。

値段はメーターではなく、定額制。
乗る時に、確かめた方がよかった。

フランスでは、タクシーとは別に、VTC、Vehicule de Tourisme
avec Chauffeur(ヴェイキュル・ドゥ・トゥーリズム・
アヴェク・ショフェール、運転手付きの旅客用車両)と
いう公認の車がある。
実は、ウーバーや、ボルトもこちらに入るらしい。
細かな違いは、様々あるようだが、使う側としてタクシーとの大きな
違いは、車線で、タクシー・バスレーンを走れない、ということ。
これは、実は、後のパリで大きな意味を生む。
渋滞の多い大都市では、このタクシー・バスレーンを走れない
ことで大いに差ができるのである。

ともあれ、夜遅い時刻の郊外で、ウーバーやボルトも近くに
いない可能性が高く[ポール・ボキューズ」が使っている
ハイヤーを呼ぶのは、当然の選択肢で、これ以外はなかった
といえるよう。

後で調べてわかった。お兄ちゃん、ごめんなさい。

さて。

翌日。

今日も夜は、予約がある。
またまた、ブション。実は、一番最初に書いた、
仔牛の脳味噌、で、ある。
最初の店もブションなのだが、あそこはシェフの技術が
優れているというブションで、今日は、リヨンで、最も(?)
名を聞く店。[Le Cafe Des Federations、(ル・カフェ・デ・
フェデラシオン)直訳すると、連盟(同盟)のカフェ]。

仔牛の脳味噌も、ここの看板メニュー。
ここでなくとも、どのブションにも大抵あるが、これを
食べるのが、第一目的。
まあ、脳味噌自体が、そもそも今回フランスへきた、
最大の目的の一つ、でもあるのだが。

で、昼間はどうするか。

リヨンというのは、前に書いたが、フランスでマルセイユと
第二の都市の座を競っている都市、ではあるが、フランスでも
有数の古い大都市。だが、これもマルセイユと争って
マルセイユの方が古い。ともあれ、ともにパリよりも古い
大都市といってよいようである。

と、いうことは、旧市街へは是非行ってみねば。
(実は、先の今夜の店も、旧市街にあるのだが。)

旧市街といえば、大聖堂。
ニースでもモナコでも、行っている。
私は、カトリック信者なので、やはり行かねば。

リヨンの旧市街というとどのへんかというと、ローヌ川と
ソーヌ川が流れている、ソーヌ川側北部。
大聖堂のあるソーヌ川を渡った西側と、その対岸のローヌ川
に挟まれたあたりをいうよう。(世界遺産の旧市街はもっと広い
のではあるが。)

9時すぎにアパートを出て、トラムの停留所へ向かう。

前に書いたように、トラムはリヨン・ペラーシュ駅
(Gare de Lyon-Perrache)からの大通り、シャルルマーニュ通り
(Cours Charlemagne)を走っている。
この界隈、通りはきれいな碁盤の目になっている。
ヨーロッパの旧市街はどこの街も道はぐちゃぐちゃ。
と、いうことは、ここは新市街。

交差している細いバイヤール通り(Cr Bayard)の歩道に、
マルシェが出ていた。
昨日はなかったと思うので、朝市のよう。

規模は大きくはないが、肉、野菜、フルーツ、チーズ、ハムの
屋台が軒を連ねている。

右側に写っているのが、poulet roti(プーレ・ロティ、
鶏の丸焼き)のフードトラック。最近、ロティサリー・チキン
という名前で東京でも出すレストランが増えているよう。

フランスでは、こういうマルシェ、街角の肉や、スーパーの中、
もう、どこといわず、この機械で焼きながら売っているのを、
見かける。おそらく、地域を問わず、フランス中で。
日本の焼鳥のように、フランス人には身近でおそらく不動の
人気メニューなのであろう。

拡大。

我々が子供の頃、東京の肉やでもあった記憶がある。
おそらく簡単な機械なのであろう。
いつの間にか消えてしまったが。
この機械、フランス語でRotissoire(ロティソワール)という
らしいが、ぐるぐると、自動で回りながら焼く。

下に、脂が落ちるが、おわかりになろうか、丸のままの
じゃがいもが置かれている。これだけで火が入るのか、
ゆでたものか、わからぬが、フランス人にはこの焼き鳥は
鶏の脂の染みたじゃがいももセットのよう。

買って食べてみてもよかったが、まあ、塩焼きなのであろう。

調べると、スパイスが入った専用ミックス塩などもあったり、
バター、にんにく、レモン、パプリカで赤みを付ける、
レッドペッパーで辛味を付ける、といったものもあるよう。
だが基本はやはりシンプルに強めの塩胡椒といってよいよう。

さて。

旧市街までは、トラムでペラーシュ駅まで乗って、
メトロ、地下鉄A線で、Bellecour、ベルクールまで。
やっぱり、クレジットカードのタッチで入れる。

ベルクールで降りると、目の前に大きな広場。
ここはもう、世界遺産リヨン旧市街の一角。

ベルクール広場(Place Bellecour)、という。
かなり広いが、人は少ない。(ちなみに、今日は日曜で、
今はAM10時前。)

 


つづく

 

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