さて。
京都北白川の、曼殊院門跡の庭、いかがであったろうか。
紅葉はかろうじで間に合って、素晴らしいものを見ることが
できた。人も少なかったのもありがたかった。
根本的にわからないのだが、庭というのは当初設計当時の
デザインコンセプトがあって、その後、300年、400年の間の
庭師の管理とがあるわけだが、その関係はどうなっているのか、
ということである。
江戸の200年があって、その後の明治以降の百数十年とあるが
このお寺そのものの置かれている立場というのか、環境というのも
時々で変わってきたはずである。
桂離宮、修学院離宮、曼殊院門跡、ほぼ同時期。
いずれも皇室のもの。
後述しようと思うが、この時期の皇室には幕府から
お金が出ている。でなければ、二つの離宮にしても
できようはずがない。
そして、幕府の作事奉行の小堀遠州が関わっている。
(または、その後継者。)
当時最新流行のものを、お金も十分にかけられて造られていると
いってよいと思われる。
その後、この門跡寺院と庭の管理はどうであったのか。
江戸期、一般には皇室、朝廷はお金がなかったというが。
400年弱の間、どんな歴史を歩んできたのか。
そして、その中でどんな管理をされてきたのか。
大書院、小書院などの建物は江戸初期に建てられた形が
ほぼそのまま残っており、庭もそうなのではないか、と
考えられているようではある。
庭というのはむろんのこと生き物である。
この美しさを維持するには、毎日毎日、庭師が手入れを
してきたし、今もしている。
こんな環境があるのは、京都以外では考えられまい。
京都に庭師がどのくらいいるのか、わからないが。
まあ、そんなことを考えた。
さてさて。
庭のことはそんなことなのだが、建物、宝物には
まったく触れていない。
今回、見るには見たが、時間はかけないことにした。
大書院、小書院などは重文。
宮元先生によれば、設計的には遠近法や黄金分割を生かした
ヨーロッパの影響が色濃くあって貴重なもののようだが、
部屋の内部などは撮影禁止であるし、省いた。
また、曼殊院本という11世紀(平安末)の古今和歌集の
ほんものもあった。
これらはいつの日かまた。
曼殊院の通用玄関に出てくると、なんのことはない雨は
既にあがっていた。
だが、この山から徒歩で降りていく気力はもはやなくなった。
次の目的地は、東山南禅寺の金地院。
ここから遥か南の方。
京都のお寺というのは、一台二台、タクシーがいる。
えーい、乗ってしまえ。
というので、タクシーで曼殊院道から白川通に出て南下。
途中から左、東の山側に入り、南禅寺到着。
金地院は南禅寺の塔頭になるのだが、三門に向かって
手前右の方。
門。
入って右側に拝観の受付。
基本は、遠州作の庭なのだが、重文の方丈と茶室を説明付きで
見ませんか?とのこと。
追加料金を払ってお願いする。
20分後ということなので、その間に東照宮を見ることにする。
さて、ここ金地院、とはなにか。
前から書いてきているが、金地院崇伝、以心崇伝ともいう。
この人が住した、臨済宗南禅寺の塔頭。
まあ、崇伝の京都での住まいであったわけである。
崇伝は永禄12年(1569年)生まれ、寛永10年(1633年)65歳で没。
安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の坊さんである。
生まれは当時滅亡寸前の室町幕府重心の一色氏。
足利義昭追放後、南禅寺で出家。その後、順調に出世したといって
よいのであろう、37歳で鎌倉五山第一位の建長寺住職、
同年臨済宗五山派の最高位・南禅寺270世住職となり
官寺の頂点に立ち、後陽成天皇から紫衣を賜る。(wiki)
ここから家康に招かれ幕政に参加。
関わったものは枚挙にいとまがないが、キリスト教の禁止、
寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わり
また、先に書いたが、豊臣家滅亡に結び付けた大坂の陣の
端緒になった方広寺の鐘銘事件に関わっているとも
いわれている。(これは否定説も出ているよう。)
家康政権の寺社関係、外交担当大臣といった役割で
黒衣の宰相と呼ばれ、絶大な権力を持っていた坊さんである。
その崇伝によって金地院がこの地に移されたのが慶長10年(1605年)。
方丈は寛永4年(1627年)建立(重文)、茶室の八窓席(重文)
遠州作、が寛永5年(1628年)までには完成していたと考えられて
いるよう。
そして、先に書いたように境内には東照宮がある。
これも遠州作、重文。東照宮はむろんのこと徳川家康、
東照神君家康公を祀る神社。社殿は寛永5年(1628年)に造営、重文。
京都で東照宮とは奇異にも思われようが、家康自らが遺言して
建てられた三つの東照宮、すなわち、静岡の久能山、日光と、
もう一つはここであったのである。
これには大きな意味があると、宮元先生は書かれている。
その東照宮から見に行くが、入ってすぐのところの池。
崇伝の当時の地位と幕府作事のトップ小堀遠州との関係を考えると、
ここ、金地院は遠州色が濃密に出ていて然るべきであろう。
伝遠州作ではなく明確に史料にも残っている数少ないところである。
手入れの問題かもしれぬが、うっそうとした木々。
わからぬが、なんとなくそんな気もしてくる。
左側の小道を入っていく。
ここはきれい。手入れが行き届いているように見える。
木戸を入ると右に折れ、思いがけず、細い参道。
こんなものであるか。
あえて、なのか。
現れた、拝殿。
これが京都金地院東照宮である。
つづく