浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭、京都へ その11

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断腸亭の京都。

東山、南禅寺塔頭の金地院。
江戸初期の以心崇伝所縁の寺。

そこにある、東照宮である。

久能山、日光とここ。
家康自らが遺言した三つの東照宮のうちの一つ。

金色のようにも見えるが、実は黒漆が剥げてしまっているもの。

総黒漆塗り。

比較のために、私の地元東京上野東照宮の拝殿を出してみよう。

こちらは先年やっと修復してもらえて、往時の姿が再現されている。
上野は黒漆と金箔張り。

金箔の方がもちろん派手でお金もかかっているのであろうが、
総黒漆というのはそれに次ぐもの、という。
門では上野であれば寛永寺、あるいは、増上寺にも黒門があるが、
どちらも将軍菩提寺で幕府に関係するものでは将軍家関係のものに使う
格としては上位のもの。
さらに金地院東照宮には家康の遺髪と念持仏を祀っている。重要度は高かろう。

さて、ここで宮元先生のこの京都金地院東照宮に関する説を
紹介しよう。これ、おもしろい。

まず、この地図。

江戸から北極星の方向に日光、日光東照宮がある。
これは、皆さまも聞かれたことがあるかもしれない。
家康は神になって関八州を守る、という意思であった、と。

また、京都金地院に東照宮を建てるのは、京都、朝廷への睨み、
さらに西国鎮護という意味があったであろうことは、簡単に
想像ができよう。

それから問題なのは、この地図にマークしたが久能山東照宮から
京都金地院東照宮を結ぶ線上に愛知県新城市にある蓬莱山、
さらに岡崎市大樹寺の二か所が存在しているということ、という。

新城市の蓬莱山というところは家康の生母・於大方(おだいのかた)が
子授けの祈願を行ったところ。岡崎市大樹寺は家康生誕の地。
大樹寺には家康が「位牌を建てよ」と遺言しており東照宮
建てられ、また蓬莱山にも東照宮が建てられたという。

久能山から京都の線上にこの二か所が入るのは偶然ではない
という。なんだか呪(まじな)いのようだが、実際にこれ、
呪いなのである。吉田神道神道家、吉田梵舜という者の
監修による神道上の秘儀で、家康の神への再生という意味が
あったというのである。
荒唐無稽のようだが、当時としては大真面目に行われていたこと
と考えてよいようである。

さらにちょっと横道に逸れるがこの吉田梵舜なる者は家康以前には
秀吉に仕え、秀吉にも神となって再生する秘儀を行っている
というのである。この南禅寺よりももっと南の東海道線
トンネルの上の山あたり、阿弥陀ケ峰の山頂に、秀吉は葬られ、
豊国廟が建てられた。そしてこの豊国廟は西向きに建てられたという。
また、その西の麓に秀吉を神として祀る豊国神社が建てられた。
そしてさらに西に秀吉が保護した西本願寺が一直線上にある。
これが秀吉神格化の秘儀であったらしい。

家康は大坂の陣で秀頼、淀殿を滅ぼすと豊国廟、豊国神社を
徹底的に破却、神号も剥奪させたという。廟も掘り起こし、
豪華なお棺から一般同様の壺の棺に屈葬の形で葬り直している
というのである。

家康もなかなかえぐいことをするものである。
そして、代わりに自らが神になろうとした、のである。
政権が代わるのだからここまでやるのはあたり前だったのか。

ちなみに金地院東照宮も西向きである。
この後述べるが、金地院の方丈及び庭園は南面しているが
直角になっているのである。

さて。

きた道を戻り今度は、金地院の方丈にきてみる。
金地院内部の拝観と説明を受けるまでには、もう少し
時間がある。

方丈前の庭園。

またまた、パノラマのショット。
(毎回同様だが、手前のラインは実際は直線である。)

広い文様付きの白砂と向こう側に石組み。
その奥に、丸く刈り込まれた木々。

これを見ても、トウシロウの私にはなにやらさっぱり
わからない。参考書を開き、説明を聞かねば。

ふむ。これが、紛れもない小堀遠州のいわゆる枯山水の庭。
寛永4年(1627年)に主である崇伝の依頼により作庭されている。

宮元先生の参考書から作ってみた。

説明の方が現れて、方丈に上げていただく。お客は私一人、差しである。

方丈の開け放たれた障子から。

ちょっと角度が付いているので少しわかりやすいか。

左が亀に見立てた亀島。右が鶴島。
鶴は首を下に付けて、伏せているような感じを見立てている。

間に平らな大きな石があり、これが礼拝石。
奥の石組みは蓬莱石組み。三尊石ともいうようで
仏に見立てているとのこと。
礼拝石はそれを拝するためのもの。

鶴島と亀島はシンメトリー、左右対称に配置されている。
宮元先生によれば日本庭園としてはかなり珍しい構成で
欧州の庭園のもの。
また背後の木々はすべて丸く刈り込まれ幾何学的に
配されている。これも西欧式庭園を想起させられる
という。
(時代は後の曼殊院も同じ名前の鶴島、亀島。偶然か意図か。
だが曼殊院の方は、大小がありシンメトリーではない。
むしろ、奥の亀島を小さくおり、遠近法とみるべきか。
この件、宮元先生は曼殊院の項で触れられていないが。)

また、ここにもキリシタン灯篭がある。

さらに。この庭の正面は南。木々の向こうには東照宮
西向きに建てられている。この庭を見ることは東照宮
礼拝することになるのである。
これも遠州によって意図して設計されていると。

将軍家光はこの時期数回に渡って上洛している。
実際には実現をしなかったようだが、ここに家光が
立ち寄ることを想定していたというのは説明の方の言葉。
なるほど、そういうこともありえよう。

この庭の鶴と亀は東照宮を拝する脇侍で、もちろん
どちらも長寿の象徴。つまりこの庭は祭壇のようなもので
徳川家の永遠を祈る装置であったというのである。
なるほど、深い。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

金地院
京都市左京区南禅寺福地町86-12