浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭、京都へ その2

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さて、引き続き、京都。
東寺の庭。

まずもっての目的、東寺の五重塔と池の見える庭である。
Windowsのロック画面に現れた画像であった。

美しいではないか。
私のようなトウシロウが撮ってもこんな写真が撮れるのである。

この写真、撮っていて気が付いたのだが、この場のこのアングル以外
考えられないという画、なのである。
そうでなければ、この画にはならない。

ロック画面のものはもう少し、横幅が広く、右側背景に金堂の
大屋根が見えているが、まったくこの場所のこの位置に立って
この高さ、この角度でカメラを構えている。

五重塔、左側の紅葉、池、飛び石、その先の島のように見える部分、
丸く刈り込まれたつつじ(?)、そして、藤なのか棚、また右に紅葉の赤。
ロック画面のものは紅葉ではなく、青々とした緑なのだがそれでも
この絶妙配置の端正な美しさは同じである。

これらが、これ以上ないというバランスで配置されている画である。
よく、歌舞伎芝居で浮世絵のようなバランスで複数の役者が立ち、座り、
見得を決める場面があるがあれもそうである。
この庭、実際には三次元であるが、二次元に写し撮った時に、
最高のバランスになるように、設(しつら)えられているといって
よろしかろう。

つまり、そう見えるように庭を設計し、管理されている。
もちろん、偶然ではない。
これほど真剣に庭を観察したことはなく、初めて気が付いた。
こういう庭があるのである。

昨日書いた、今回下調べに使った「京都名庭を歩く」(光文社新書宮元健次

では、日本の庭と欧州の庭を比較して説明されている。
私も見たことがあり、皆さんもご存じであろうが、例えば
ベルサイユ宮殿の庭

(ちなみに、この書には東寺の庭のことは書かれていない。
そう有名なのではないのであろう。)

ベルサイユの庭には幾何学模様のように木々が刈り込まれ、
作られているものがある。
元来の日本の庭は自然をお手本とし、幾何学模様のように刈り込む
ということはしなかったという。
この東寺の庭では、丸く刈り込まれたつつじ(?)がある。
今の日本庭園でもこういう刈り込まれ方はよく見る。
大きさ、位置はもちろん熟考して作られているのであろう。
必ずしもランダムではなく、バランスを取って配置されているはずである。
ベルサイユ宮殿の庭のように完全なシンメトリーだったり、
整った幾何学模様ではないが、これは元来の日本の庭の作り方では
なかったのでは、、。

宮元先生によると、自然の木々をお手本にした元来の庭の作り方が
変わったのは、安土桃山以降だというのである。
(これには、後で述べるが、幕府作庭家の小堀遠州という名前が出てくる。)
つまり、この時期、欧州の文化が、南蛮貿易等により、キリスト教の伝来
などとともに多数入ってきたのだが、庭についても然りであったという。

この丸く刈り込まれたものもそういってよいのか。
デザイン上、黄金分割、美しく見える配置というのは、それこそギリシャ
時代なのか、古くから欧州では発見されてきている。
幾何学模様に設計するのもその行きついたところだと思うのだが、
一つ一つの石や木の配置もこれ以上ないというレイアウトがある。
安土桃山期には、そいう欧州のデザインの考え方も入ってきている
というのである。
ベルサイユ宮殿のような完全に自然ではない配置のような庭は
我が国は受け入れなかったが、考え方は取り入れていることか。

例えば、この東寺の庭がその例といってよいのかどうか、
私にはわからないが、この絶妙配置はそう考えてもよいように
思えてくるのである。

では、この庭、時代的にはいつなのか。
東寺のパンフレット、ガイドブックなどには堂宇、仏像の
ことは書かれているが、庭のことまで触れられていない。
わかっているのかもしれぬが。

五重塔は江戸初期、寛永21年(1644年)とわかっている。
まったくの私見だが、この庭を造ったのも、この時なのではなかろうか。
五重塔を考慮してこの庭は設計されていることは
先に書いたように、明らかであろう。
むろん寛永は安土桃山期にヨーロッパの作庭ノウハウが入った後である。

五重塔と庭を同時に作るというのは、考えやすいように思われるのだが。

さて、そんな五重塔

 

 

どんよりとした空でイマイチではあるが、これが新幹線からも
見える、東寺の五重塔寛永21年(1644年)国宝。

ふと、思い出したのだが、私の地元、東京上野にも五重塔があるが、
これは寛永16年(1639年)で、こちらは重文。わずか5年違い。

 

 

この写真はちょっとわかりずらいが、朱塗りの塗装などは今、修復されて
きれいになっているが、時代としては東寺の塔とほぼ同時期である。
(東寺のものも今は褪せているが元々は朱塗りのよう。)

建築様式などもまったく私にはわからないのだが、ほぼ同時期の五重塔
上野のものは、寛永寺のものといっているが本来は上野東照宮のもので
老中土井利勝の寄進。東寺は三代将軍家光の寄進ということになっている。
これだけの塔を建てるのは、もちろん東寺にしても上野東照宮にしても
幕府の直接関わる国家プロジェクトであったはず。関連はありそうである。
(・・・と、すると庭も、と思えてくる。先に述べた小堀遠州または
その周辺の関わり、への想像である。)

さて、庭はこれくらいにして、金堂、講堂と安置されている仏様を拝観。

南の南大門(重文)から金堂(国宝)、講堂(重文)と
中心線に沿って真っすぐに並んでいる。
いかにも平安初期のお寺の伽藍といってよいのか。

ともあれ。
東京からセーターとステンカラーのコートを着てきたが
もはや暑くて、どちらも脱いで持って歩くことになってしまった。
東寺終了。

さて、ここからどこへ行くのか。
松尾大社である。
場所は京都盆地の西の山裾。

京都では、北は北山、東は東山という。西は洛西という言い方はあるようだが、
なぜか西山とはあまりいわないようである。

松尾大社桂川沿いで桂と嵐山の中間。
ちょうど好都合に東寺前のバス停から松尾大社前の松尾橋行きの
バスがあったので、これで向かう。

東寺前から大宮通をまっすぐ北上。
西本願寺を右に見て、四条通まで。四条通を左折、さらに西に進む。
バスは天神川駅を回るため一度北上。再び四条通に戻り、
松尾橋終点。

桂川に架かっている松尾橋を徒歩で渡り、阪急松尾大社前駅。
コンビニで一休み。

 

 

 

つづく

 

東寺