浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



家でおでん・その2〜東京風おでん考察

dancyotei2017-01-31


1月29日(日)夜

引き続き、東京のおでん考察。

落語「お若伊之助」の

≪「煮込みのおはつを差し上げたい。とろろもございます。」≫を

考えている。

実際のところ、私も真意はわからないのが今の結論。

煮込みのおでんは、味噌おでんなのか、しょうゆで煮〆た

ものなのか、というのも含めてこれだけではなんともいえない、

というのが正直なところであろう。

次に、この噺の年代を考えてみる。

毎度書いているが、歌舞伎は明確に初演などの記録があるが

落語の場合、江戸、明治初期は、初演はもとより、

年代のわかる口演記録は、ほぼない。

そこで推測になるのだが、この「お若伊之助」は

圓朝全集に入っており、一応のところ圓朝作ということに

なっている。しかし、大圓朝の作品にしては結末がちょっとお粗末。

圓生師も疑っていたよう。

ただ、どちらにしても明治33年の圓朝没以前。

明治初年〜20年あたりまでなのではなかろうか。

ただ「お若伊之助」にはただ“おでん”ではなく

“煮込みのおでん”という言葉が出てきて、使われていたことは

憶えておく必要があろう。

他に、おでんが登場する落語を挙げてみる。

百席(53)ちきり伊勢屋

これも圓生師。

品川へ向かう街道筋で夜、おでんの屋台でお銚子一本とおでんを喰って、

最後に茶飯というシーンがある。

言葉としては“煮込み”が付かない“おでん”で、ある。

圓生師は種の名前を出しているが、今ある、がんもに

信太(しのだ巻)であった。

時代設定は江戸だが、種の名前など、先の「お若伊之助」のように

くすぐりや、筋に関係がないので、後からの改作であることは

十分に考えられる。また、最初に出てきた蒟蒻の味噌おでんであっても

ストーリー上はなんら問題はない。

また、屋台のおでんやで茶飯も出すというのが注目される。

振り売りの茶飯売りなどはそれこそ『守貞謾稿』にも登場し、天保の頃には

既に一般化していたようではある。正調東京おでんの「お多幸」では

今も出すが、東京のおでんやでは茶飯を出すものであった。


もう一度聴きたい 古今亭志ん生十八番集

これは志ん生師。



舞台は長屋。酔っ払った男が内儀(かみ)さんに

おでんを買ってこいと言い付ける。

これも、がんもどき、はんぺん、焼き豆腐、八頭(やつがしら≒里芋)

なんというものが種として出てくる。買うのは流しの振り売り。

裏長屋に、こういう振り売りのおでんやがきていたということを

裏付けていることにはなろう。これも“煮込み”は付かない。

種を列挙して買ってこいと内儀さんにいうことそのものが

くすぐりになっているので、蒟蒻の味噌おでんでは成立しない。

時代設定は冒頭に人力車が出てくるので、明治であることは宣言されている。

しかし、いつ頃かは明解にはわからない。

明治10年、20年ではなく、もう少し後かもしれない。

落語に出てくるおでんの種でもう一つ気が付くのは、練り物の種が少ないように

見える。はんぺんだけ、である。

竹輪にしても練り物は古くからある食品で、入ってもよさそうであるが、

やはりどちらかといえば、豆腐系、里芋で、前身の田楽の材料が中心である。

これは、練り物は江戸期にはまだ高級品で、明治になっても庶民はそうそう

食べられなかったのではなかろうか。

さつま揚げ、そのバリエーションのごぼう巻等々がおでんのメニューに

入ってくるのは、明治末、昭和初期?時期はわからぬが、後のことだと

思われる。

その後。

「1887年(明治20年)に創業したおでん専門店「呑喜」(東京・本郷)の創業者は、

汁気の少ない当時のおでんを汁気タップリに煮込んで売り出しました。

近くに東京帝国大学(現東京大学)があり、にぎわったといいます。」(紀文)

これはしょうゆで煮〆た[お多幸]的、正調東京おでんであろう。

これ以前は汁気はたっぷりではなかったということか。

では、その味は?、で、ある。

ここは大きなポイント、で、ある。

私は明治20年までに、焼きおでんと、味噌おでんしかなかったとは

思えないのである。

ともあれ。

その後、この汁気たっぷりの“しょうゆ味の”東京風おでんが関西に広がり、

透明なつゆで煮る関西のおでんになったという。

そして、震災後、透明な関西風おでんが東京に戻ってきて、という流れである。

さて。

しょうゆで煮〆た東京おでんは、いつできたのか、で、ある。

この結論がまだであった。

江戸末なのか、明治になってからなのか。

昨日書いた、松下先生の説は、明治18年初演の歌舞伎の「四千両小判梅葉」に

出てくる“煮込みの”おでんやが味噌おでんであるといっている。

それで、先生は明確にはしょうゆ味のおでんがいつ生まれたかは言っていないが

もっと後であるといっているのであろう。

明治18年初演のものであっても、かつ芝居の内容は世話物だとしても

時代背景は過去の旧幕のもので、ちょっと前の売り声を使うことは

演出上十分に考えられる。

ここから、明治18年の東京のおでんが味噌おでんであったという

論拠にはならなかろう。

まだまだ推測の域を出ないが、焼いた田楽の次に、

蒟蒻や里芋をお湯で温めて(茹でて)味噌だれで食べる

“煮込みのおでん”が現れた。これが少なくとも天保の頃には

江戸で流行していた。

で、その後、明治20年まで30〜40年間あるが、この間のどこかで、

しょうゆで煮込んだおでんが現れたと私は考えるのである。

そして、これも、もしかしたら煮込みのおでんと

呼んだのではなかろうか。(やはり「お若伊之助」のおでんは、

しょうゆ味ではなかったのではなかろうか。))

以前に、明治初めからの新聞記事でうな丼、天丼などがいつ頃現れたかを

調査したことがあった
が、今度同じ手法で調べてみようか。

長くなってしまったが、本題。

純東京風おでんを煮る。

下煮をするものと、そのまま煮るものと分ける。

里芋は水煮なので、そのままでok。

今日はちくわぶだけ。

圧力鍋に水を入れて切ったちくわぶを入れ、

ふたをして加熱、加圧、5分。あとは放置。

そのまま煮るものは大きな鍋に水、酒、しょうゆ。

あとは材料を入れて煮るだけ。

内儀(かみ)さんが玉子を三つ茹でていたのです

それも。

出汁の類はまったく入れない。これだけ。

味が染みればok。

威張ってはみたものの、

東京のおでんなど他愛ないもの。

だが、こういうもの、なのである。

しょうゆが濃ければ10分もすれば食べられる。

要は、しょうゆの煮〆。

むろん好みであるが、砂糖やみりん、甘くなるものは入れないのが

東京下町の味であろう。

そうでなくとも、揚げ物などは甘く、味が出てくる。

私の父は、甘い煮物は頑なに認めなかった。

ともあれ、里芋などこれほどか、と思うほど、うまい。

純東京風おでん保存会を作ろうか。