浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



豆富料理 根岸 笹之雪 その1

dancyotei2015-02-08

一つ書き忘れていた。
これはどうしても書かねば。


2月1日(日)夜


日曜日。


相変わらず、寒い日が続いている。


内儀(かみ)さんがさっぱりしたものを、
というので豆腐、湯豆腐にしようと、決めた。


拙亭からもそう遠くない根岸に、豆腐専門の
料理や[笹乃雪]というところがある。



創業は江戸も元禄4年(1691年)。



どうであろうか。


東京に現存する料理やとしては、おそらく最も古い
のではなかろうか。


豆腐料理やとしてだけではなく、
デパートなどでもここの豆腐は買える
見かければ私もよく買っている。


驚くほど濃厚で、私の豆腐感を改めさせられた
豆腐である。


ここの歴史が長いのには理由がある。


東京の今に残る、江戸創業の食いものやには
いくつか特徴がある。


多くはうなぎやと鮨や。


うなぎやは、この前も書いたが、寛政年間(1789〜1801)の
創業という浅草田原町の[やっこ]が古い。


うなぎ蒲焼がこのあたりには生まれており
以降、江戸人に広まり愛され、現代まで続いている。


鮨やの方は、もう少し新しく、文政の生まれで、現存する店としては
嘉永元年(1848年)銀座[すし栄]あたりが古株。


現代の東京に続く江戸の味というのは、
古くとも寛政、あるいは文化文政あたりに
なるということである。
(食いものだけでなく、歌舞伎はもう少し古くからあるが、
落語は文化文政から、天保。浮世絵も文化文政。
今、我々が思い描く江戸のイメージは、
やはり江戸も後期のこのあたりなのである。)


これより古い料理やとなると、とたんに少なくなる。


享保3年(1718年)というのが両国のいのしし鍋[ももんじや]。


そして元禄の[笹乃雪]となるわけである。
元禄4年というのは、かの赤穂浪士の討入りが元禄15年(1703年)
なので、それよりも前である。


現ご店主で10代目という。


[笹乃雪]の初代の玉屋忠兵衛という人は京都の出身。
後西天皇の第6皇子である宮様が、江戸へ下向されるのに
ついてきて、宮様の御用としてこの店を始めたという。


この宮様は公弁法親王という方で
上野の東叡山寛永寺の第五代貫主である。


寛永寺というのは芝の増上寺と並んで徳川将軍家
菩提寺でもあるが、江戸幕府が京都の比叡山延暦寺に倣って
江戸初期に上野の山に立てた天台宗の寺である。
位置付けとしては日本の寺院を頂点。延暦寺同様に、
国を護る鎮護国家の使命を帯びたお寺であったのである。


三代目以降の貫主には代々天皇の皇子を招くのを
慣例としており、上野の宮様と呼ばれていたのである。


ここで地図を出しておこう。

https://www.google.com/maps/d/embed?mid=z_4LMqXmESI4.kyPjxG60EG4M


江戸の地図も。


[笹乃雪]があるのは、根岸。
根岸、根岸と先ほどから書いているが、根岸という町名は
東京の方でもご存知でない向きもあろう。


最寄りは、上野の一つ先の鶯谷駅。


鶯谷という町名はなく根岸である。


地図でおわかりの通り、根岸は今の上野公園の
JRをはさんで北隣にあたる場所。


上野公園というのは江戸の頃は言わずと知れた
先の東叡山寛永寺そのもの。


不忍池を含め、今の上野動物園東京国立博物館などなど
広い上野全山とその周辺すべてが、寛永寺でだったのである。


上の江戸の地図は、切絵図という区分地図で、
上野の山(寛永寺)が一枚とその北側が二枚に分かれている。


[笹乃雪]は左上。
音無川(石神井用水ともいい、三ノ輪をへて山谷堀となり
吉原大門前を流れ、今戸で隅田川に流れていた。)
の北側。


店名を記入したが元の地図にも、小さくて見えぬと思うが、
ちゃんと店名が書かれている。
(現代の[笹乃雪]の場所よりも少し北側になる。)


[笹乃雪]の下に「御隠殿」と書かれているところがあるが
これは寛永寺貫主である上野の宮様がご休息されるときに使われた
お屋敷。


時代によって「御隠殿」の場所は変わっているようだが、
いずれにしても[笹乃雪]はすぐそばにあって江戸期を通して
宮様へ豆腐をお届けしていたのであろう。


上野の山は幕末、彰義隊薩長軍と戦った上野戦争で焼かれるまで、
江戸時代を通して上の地図のように寛永寺であったわけである。


また、その後の第二次大戦の空襲で焼かれるまで、
4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、
13代家定まで、6人の将軍の壮麗な霊廟があったのである。
(幕府も金がなくなり、壮麗は霊廟は綱吉までであるが。)


その後の明治という時代を通して、上野の山は
変貌させられ、今となってはこんなこともあまり
語られることがない。


やっぱり[笹乃雪]だけが、ぽつねんと、
残されてしまった、という趣である。




つづく。




このあたり、詳しくはこちら。









笹乃雪