浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



野晒し その13


引き続き、断腸亭フィクションシリーズ。


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前回



 さて。


 それから、柳治は緒方のご隠居とも相談し、八丁堀へ向かった。兄の源蔵に


会って今までの経緯を話すためである。


 ことの顛末がわかったのはそれから数日後であった。


 柳治の兄、吉田与力の指示でできるだけ大事(おおごと)にならぬよう、調


べは進められた。


 理由の、一つには現状では実害というものはあまり出ていないということ。


そして、なんといっても[泉屋]というのは幕府御用の大商人であり、かつ銅


山師でもあり。そうそう奉行所でもことを明るみに出すというのも憚(はばか)


ったという事情もあったのである。


 そもそもは向島[難波屋]の主人新次郎が大坂で、俗にいうぼんぼん生活を


していた頃のことである。今の番頭、音松は新次郎の遊び仲間、取り巻きのう


ちの一人で、中でも最も気も合ってよくつるんで遊び歩いていた。


 新次郎の実家の料理屋は[よしの]といって、大坂市中でも名の知れた店。そ


んな中で、次男である新次郎は自分は自分の力で江戸へ店を出し一家をなそう


と、考えた。まあ、これはわるい話ではない。今まで遊び呆けていた息子が心


を改め新天地で商売を始めようというのは、歓迎すべきことである。


 [よしの]の主人である実父・仁左衛門はこの提案を受け入れ、付き合いのあ


った大阪の[泉屋](住友)へ江戸での世話を頼んだ、というわけであった。


 ここから[泉屋]の江戸御蔵前の店へ話がいった。江戸の[泉屋]では直接[よ


しの]の主人仁左衛門を知ってもいる二番番頭の茂平がこの任務を引き受けた。


そこで、まずは新次郎が取り巻きであった音松を連れて江戸へ乗り込み、開店


準備をすることになった。


 新次郎は江戸に入り、一先ずは茂平の家に世話になり、ここを拠点に江戸で


料理屋開店準備を始めたのである。そのうちに茂平の次女でちょうど年頃でも


あった菊と一緒になってはという話が持ち上がり、開店と同時に二人は祝言


し夫婦(めおと)となり、また[難波屋]の主人と女将となったわけである。


二人が夫婦になることは、実際には新次郎の大坂の父仁左衛門と茂平との間で、


[よしの]江戸進出の話が始まった頃から考えられていたことではあった。


 そして大坂から連れてきた取り巻きであった音松はそのまま[難波屋]の番頭


おさまった。


 次に、音松、三吉兄弟について述べておかなければいけない。


音松、三吉兄弟は大坂の生まれだが幼い頃に母を病で亡くし、桶屋の職人の父


親一人に育てられた。二人して父に仕事を仕込まれてきたが、音松が十七、三


吉は十四の年に病気がちであった父は亡くなった。それから、二人はグレ初め、


父親の残した桶屋は人手に渡り、音松は大坂の破落戸(ごろつき)の仲間でも


よい顔になっていく。片や、弟の三吉の方はやはり職人が性に合っていたのか、


その頃から大坂で人気を集め始めていた、生人形へ出入りをするようになり、


弟子の端へ加えられるようになった。


 この二年後、破落戸の音松は[よしの]の次男新次郎と知り合ったというわけ


である。


 生人形の江戸進出にも実はこの兄弟が絡んでいた。まあ、もっとも、この件


は、別段犯罪にはあたらないことではある。ただむろんこの兄弟二人だけでは


見世物の興行の周旋などはできない。音松から新次郎、そして[泉屋]の番頭


茂平へ。[泉屋]は江戸でもむろん大店、浅草奥山の香具師の親方、久右衛門へ


も顔が利く。それで茂平から久右衛門へ話が通された、というわけであった。


 さて。問題の今回の『向島[大七]人骨野晒し事件』である。これはまず、[難


波屋]の主人新次郎はまったく知らぬことであった。新次郎は根っからの悪人で


はなかった。世間知らずのぼんぼんで、多少世の中を甘く見ており、音松のよ


うな者をそばに置いていると、どういうことになるのか見えていなかったとい


うことであろう。


 生人形の江戸進出に功績があり、兄もいる江戸に三吉は職人として同行する


ことができた。そして、むろん、兄が番頭をしている[難波屋]へは顔を出したわ


けである。


 そんな折、[難波屋]の客足が落ちていたところから、近所の老舗[大七]の評判


を落とし、客を奪うおうと本物そっくりの生人形を見て、音松が思い付いた。


 やはり落とし噺の『野晒し』を寄席で聞いたのがきっかけになったようであ


る。三吉は生人形を作る腕で本物そっくりの髑髏を作った。改めて、奉行所


髑髏を分解して調べると、木製だが重さもそれらくみせるために内部に鉄の板


を曲げて仕込むという手の凝りようであったという。三吉とすれば、腕の見せ


所と張り切って仕事をしたようである。そして、三度あると[大七]へ伝えさせ


た出家は三吉が、奥山に出ている年寄の役者へ金を払ってやらせていた。


 以上がざっとした経緯である。これを先に書いたように、柳治の兄北町奉行


所の吉田与力の裁量で、すべて隠密理に調べられ内々には[難波屋]の新次郎、


[泉屋]の番頭茂平も調べられた。


 この頃というのは、一家で一人咎人(とがにん)が出ると一家全員、さらに


は管理責任を問われて町内の町役人(いわゆる地主)なども含めて咎(とが)


めがある。


 音松、三吉兄弟については罪状明白であり、実刑として、当時の懲役である、


寄場送り。出家に化けた役者は江戸処払い。実害は出ていなかったことと[泉屋]


への連座を憚り、[難波屋]新次郎へは表向きには無関係としたが、内々にお叱


り。[泉屋]の番頭茂平にも同じく内々に、娘婿である新次郎への以後の監督の


徹底が求められた。また、生人形一座と、奥山の香具師の親方久右衛門へも内


々のお叱り。表に出さないだけで事実上連座の処分た下されたということであ


ろう。


 ぼんぼん気分の抜け切れなかった[難波屋]の新次郎。これを機に、妻のお菊


の支えもあり、料理屋稼業に出精するようになったという。







もう一回だけ、つづく。