浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



断腸亭落語案内 その7 三遊亭円生 松葉屋瀬川

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引き続き、円生師の「松葉屋瀬川」。

[下総屋]の若旦那を番頭が浅草見物に連れ出す。
今日は三月十五日。旧暦であろう。

浅草見附(浅草橋)から、浅草まで沿道の説明を番頭が始めるのだが、
善次郎の方がよっぽど詳しい。
関東大震災で焼け杉並に移転したが、以前は浅草橋須賀神社の隣に
焔魔堂があり江戸三閻魔として有名であった。番頭もむろん知って
いるがその閻魔の像を彫ったのは仏師何某であるなど、延々と説明を
する。

雷門から浅草寺に入り仲見世
浅草寺お堂の手前左側に伝法院。その前に灯篭がある。
これは、浅野内匠頭が献上をした灯篭だという。以前は浅草寺
観音様のお堂の左の方に権現様のお宮(東照宮)があった。
これに諸大名が灯篭を寄進し、浅野様も寄進したが、その後、
お宮は紅葉山(江戸城内)に移転。灯篭も一緒に移転したのだが、
浅野様だけはお家がつぶれたのでそのままここにある、と。

私が聞いても、へ~~、というような内容である。

東照宮が江戸初期、浅草寺境内にあったのは史実のよう。
今、重文に指定されている二天門は明治の神仏分離以前は随神門と
呼ばれていた。これは浅草寺東照宮があった頃の門として作られた
ためという。(「浅草寺HP」)
ただ、播州赤穂浅野家の灯篭が今も浅草寺あるのか、いつまで
あったのか、その後どうなったのか、などなど、は不詳であるが。

まあ、とにかく、この前半部分、様々なウンチクがこれでもかと、
出てくる。円生師の録音でもところどころ言いよどみがあったりする
ほどで、覚えることだけでもたいへんそうである。
だが、まあ、このあたり円生師の面目躍如である。
ただ、興味のない人は、飽きてしまうかもしれぬ。

観音様に善次郎と番頭はお参りをする。

ここから、吉原も近いから行ってみませんか、と番頭は誘う。
今は、桜の盛りで見事ですよ、と。

吉原は桜の名所としても有名であった。だが、これは客寄せのために
わざわざ咲いている時期に植えていたのものであるが。

番頭が吉原見物へ誘うと、善次郎は、烈火のごとく怒り出す。
私を道楽者にしてしまおうということか。父親に代わって、暇を
出す。店へ帰るには及ばない、と。
番頭は慌てて、それでは有様(ありよう)なことを申し上げますが、
お国の大旦那が、あまりに善次郎は固いので、このままでは世間を
知らず商売上もよろしくない、吉原へでも連れて行って少し柔らかく
してくれ、そのための五十両や百両は送ってやる、と仰って
いる、と。

仲見世で、善次郎が、憚り(便所)に行っている間に番頭馴染みの
崋山という幇間(たいこもち)に出会う。

どうしたんです?、是非お供を、と幇間らしく話しかけると、
いや、今日は若旦那のお供で、と。
そして、堅物の若旦那を少し柔らかくしてくれろと、古河の主人から
いわれているのだが、とても手に負えなくて困っていることを話す。

崋山は、それならば、私にお任せを、半年経つうちに家をぶっ潰す
くらいの道楽者にしてみせましょう、という。
番頭は、それはありがたいと、頼む。
世の中には、頼もしい番頭もいたものである、と。

翌日、崋山は品のいいこしらえで店にくる。
若旦那には儒者(じゅしゃ)という触れ込み。

ここで、円生師、幇間の説明を行う。

幇間と一口にいっても、落語に出てくる、幇間というのは、
ある種の、ステレオタイプ、落語特有のキャラクターに既に
なっている。
落語の中だと、名前は必ず一八。いつもパアパアしていて、
軽薄な男。

だが実際には、もちろんいろんな幇間がいたわけである。
落語の中でも、よくいわれるが「幇間あげての末の幇間」道楽の
挙句に幇間になるというが例えば、それなりに大店の旦那で
知識も経験もあって、幇間になるというような人もいた。
和歌、俳諧、生け花、お茶は一通り。
料理は玄人はだしなんという。
ここに出てくる、崋山という幇間はそんな人間。
それで、儒者という触れ込みができるのである。

崋山は、若旦那と話しをし、知識豊富。なんでも答えてしまう。
若旦那も先生、先生と呼んで、慕う。

ここでも、うんちく話がどんどんと出てくる。

本を読むのもよいが、あまり根を詰めると目もわるくするし、
よろしくない。花(生け花)をおやりになったらいかがか、と
勧める。

花を買いにやらせ、崋山自ら生けて見せたりもする。

崋山は、花の会といって、連れ出す。
ただ、まだまだ、吉原に連れていくというのは先。
本当に、花の会。

なん回か、こんなことがあり、数日崋山がこないことがある。

そして、現れ、ちと身内に取り込みがあってと説明し、
今日は、花の会があるのだけれど、場所柄がよろしければご同道
を願いたいのでげすが、今日はそういうわけにまいらぬ。
どこかと聞くと、北廓、吉原、とのこと。

人間おもしろいもので、行け行けというと嫌がる。
行くな行くな、というと行きたくなる。
浮気料簡は起こさぬから、連れてってくれ、と、若旦那。
思う壺。

崋山は番頭から内々で軍用金二十両を預かり、若旦那を連れて吉原へ。

柳橋から舟に乗って、堀から土手へ上がり揚屋町へくる。

吉原というのは、碁盤の目の中に江戸町一丁目、二丁目、揚屋町、
角町、京町一丁目、二丁目と六町でできていた。大門から入ると
真ん中が仲之町の通り。手前から江戸町が左右にあり次が右が
揚屋町、左が角町、さらに奥の仲之町の左右が京町になっていた。

噺の中の説明では「昔は、揚屋町というのは台屋とか、芸者、幇間
遊芸の師匠というのが住んでいたんだそうで」と説明する。
「[たけむら]という台屋(だいや)がありまして、この横を入る。」

そして、円生師は台屋の説明をする。
まあ、仕出し屋のこと。お客が妓楼で食べるものを持ってくる店。
飯台に入れて持ってきたので、台屋、という説明をしている。

ちょっと余談だが、「台」のこと、で、ある。
これ、以前から気になっていたのである。
ちょっとマニアックな話しで恐縮である。

別の噺であるが「居残り佐平治」という噺がある。
これは吉原ではなく、品川であるが、やはり廓の噺である。
その「居残り」で“そばの台”というものが登場する。

妓楼で食べるものを“台のもの”、あるいは、料理の名前を前に
つけて“そばの台”という使い方になる。(ここまではよい
はずである。)

しかしこの「居残り」では食べ終わった“そばの台”というのが
出てくる。円生師はこれを“台ガラ”といっていた。
これが原因で私は大きな誤解をしていたようなのである。

 

つづく