浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



2015年落語のこと その5

dancyotei2015-01-29

結局、一週間書いてしまった。



落語のこと。



今の東京の落語界のことから、落語を民俗学的に見てみようという
試みにもなっていないのだが、私が以前から気になっていたことを
並べてみた。


弔い、祝言民間信仰


そうである。
民間信仰で一つ、もう一つ、書いておきたい。


富士信仰というやつである。
最近、富士山は世界遺産になって注目されているので
ご存知の方も多かろうが、特に江戸時代、富士講という
富士山を信仰する、新興宗教といってもよい民間信仰
流行した。


実は、富士講は落語にはないのだが、もう一つ、近いものだが
大山信仰というのがある。これも大山講という講を組んで、
神奈川県の大山へ登山、参拝する。


これを落語にしたのが「大山参り」。


噺を聞けばわかるが、信仰とはいいながら、
まあどちらかといえば、物見遊山。
帰りに、江ノ島やらに寄って、大騒ぎをしてくる、
というもの。


しかし落語になるくらい一般的なものであった
ことはわかる。


金を積み立てておき、夏に行くのだが、江戸人の年に一度、
気の置けない仲間との慰安旅行と考えたらよいのであろう。


そういえば夏というのは江戸人は町人であっても
よく休んでいたようである。


料理やなども今の8月1か月を休んだりするのはよくあり、
また、ある意味、今の大山参りも避暑のような趣も
ありそうである。


「うなぎの幇間」という噺。あまり演っていないが圓生師の珍しい
音を聞いたことがある。これも季節は夏で、幇間(たいこもち)の
一八がお客が出てこないので、家へ押しかけてみると、
どこへ行っても、みな温泉やらへ遊びに行って八月一杯帰ってこない、
なんというエピソードがある。
「うなぎの幇間」の時代設定は江戸ではなく明治あたりだが、
この頃、やはりお金のある人は、ドカッと休んで、遊びにいっていた
ようである。


やっぱり、現代東京人は働きすぎ。
8月1か月くらい休んでもよいはずである。


さて。


せっかくなので、食い物のことも書いておかねば。


この日記にはよく書いているので、今さらではある。
比較的、書いていないと思われることにしてみよう。


江戸、東京の名物といえば、うなぎと鮨であろう。
うなぎ、というのは落語によく出てくる。
先の「うなぎの幇間」もしかり。


これに対して、鮨というのはほぼないのではなかろうか。
不思議といえば不思議なのである。
いろいろ考えたのだが実際のところ理由はよくわからない。


「推測1」時代の問題。
つまり、うなぎ蒲焼の方が、にぎり鮨よりも古い。


落語が生まれて様々な噺の原形ができた、天保から幕末頃、
既にうなぎの蒲焼は定着していた。
落語の成立より鮨が後である?。


実際のところうなぎの蒲焼が生まれたのがいつなのか、
明確にはわかっていないのだが、今東京に残っている
最も古いうなぎやは、浅草の[やっこ]、日本橋
[大江戸]の二軒と思われるが、どちらも寛政年間と
いっている。
寛政は、1789〜1801年である。(文献にもこの頃現れ始めているよう。)
これ以前にはうなぎ蒲焼は生まれていた。


にぎり鮨は、文政7年(1824年)両国の与兵衛寿司が
最初とされている。
にぎり鮨よりうなぎ蒲焼の方が25年〜30年以上
前に生まれていたということにはなる。


これに対して、落語が生まれたのは、仮に
最初の寄席ができた頃とすると、寛永10年(1798年)。
鮨の生まれる26年前。
ただ、落語が盛んになったのはもう少し後の天保の頃と
見るのが正しいとすると、にぎり鮨は生まれて
すぐというところ。


微妙なところではある。


「推測2」うなぎを食う人間と落語を聞く人間は
重なっていたが、鮨を食う人間と落語を聞く人間は
重なっていなかった。


これはあまり考えられないか。


ただ、毎度書いているが、うなぎが天然ものだけであった
時代のことで、今よりもさらに蒲焼は高価であった。


これに対して、にぎり鮨は屋台もあったというので
安いものもあったはずで、誰もが食べるものならば
やはり落語に出てきてもよさそうではある。


ということで、今回は結論なし。


さて。


おまけ、なのだがうなぎが出てくる噺のこと。
挙げてみると「素人うなぎ」「うなぎの幇間」「子別れ」。
このあたりが代表であろう。
これらに共通することを発見したのだが、
マニアの方お分かりであろうか。


皆、時代設定が明治以降であるということ。


「素人」は士族の商法なので、むろん明治。
幇間」は文楽版では冒頭に、兜町の旦那、自動車に乗っちゃった
なんというのが出てくる。前記の圓生版も然りで、大正か昭和初期
といってもよさそう。


「子別れ」は別れた息子に50銭の小遣いをあげる。(他)


偶然であろうか。
ひょっとすると、すべて設定だけでなく、噺ができたのも
明治以降なのかもしれない。


と、すると、江戸の頃には鮨はおろか、うなぎの噺も
なかったことになり、先ほどの考察はなんの意味もなくなる。


が、これは実はそうでもない。
手元にあった資料(「定本・落語三百題」武藤禎夫・岩波書店)によれば
「素人」だけしか載っておらず他はわからないが、
「素人」と同工の小噺が江戸期にあり、少なくとも江戸期に
うなぎの出てくる落語はあったのは確かのようである。


と、するとやっぱり、偶然か、、。



ダラダラ、与太話を書いてきてしまったようだが、このへんで
お仕舞にしよう。




お付き合いいただき感謝感激雨霰。