浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



鴨とねぎの鍋 その1

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4003号

1月2日(日)

さて、正月二日。

これも毎年のことだが、鴨。
やっぱり、鴨はうまい。

昨年もハナマサで安かったタイ産の胸肉を
なん回か、フレンチの手法で焼いてみてもいる。

正月はなににするのかというと、やっぱり鍋。
鴨鍋。

鴨鍋も甘辛のすき焼きにするのもあるが、
やはり、ねぎとだけ焼いて、しょうゆをたらして
喰う。
これが、最もうまいと思う。

さて、鴨となると、やっぱりこの著作に触れないわけには
いかないだろう。

昨年、この本が送られてきた。
読んで少し勉強しろ、ということであろう。

「鷹将軍と鶴の味噌汁 江戸の鳥の美食学 (講談社選書メチエ)」

著者は菅豊氏、東京大学東洋文化研究所教授。
私の大学時代の同級生である。
民俗学者でよいのか。

まあ、筑波大学の日本民俗学の、いわゆる学部の同級生で、
私は四年で卒業しサラリーマンになっているわけだが、
彼はその後、学者、研究者の道を歩き、今に至っている。
(ざっくり書きすぎであろうが。)

学部当時、私は彼とともに、新潟県の最北、山北町
(現村上市)に泊まり込み、いわゆる民俗調査をし、
私は稚拙な卒論とも言えないものを書いたものである。

村上市三面川は鮭の獲れる川として、昔からそして今も
知られているが、彼は、当時は経済伝承などといったと思うが
山北町で、伝統的に鮭を川で漁獲し、様々な生活文化に
なってきたわけだが、その研究を始めていた。

この昨年上梓された著作の内容は、民俗学者のポジションで
我が国の鳥、特に野鳥食文化の歴史を先史時代から、古代、
中世、近世・江戸、明治以降と丹念に掘り起こされているもの。
特に江戸期、日本人は驚くほど多く、多種、多量の野鳥を
食べていた、と。

毎度書いているが、生活文化史、食文化史というようなことに
なるのであろうが、この分野、まっとうな日本史学者が
扱うものではなく、ちょっと怪しい(?)研究家と名乗る人
だったり、が扱っていたり、まあ、ちゃんとした学問的
アプローチがあまりされてこなかった分野ではある。
昨年、私もちょっと書いたが、例えばおでんの歴史。
焼いたり、湯に入れて温めた豆腐などに味噌を塗って食べる、
田楽が、いつ、しょうゆ味などのつゆで煮る今のおでんに
なったのか、どうもはっきりしたことがわかっていない。
こんな身近なことがわかっていない、というのは、
どういうことなのであろうか、で、ある。
私も、民俗学を浅薄ながら学んだ身として、名もなき
人々が、歴史の中でなにを考え、なにをしてきたのか、
ここにやっぱり、興味があり、大切なことであろうと
考えている。それは取りも直さず、今の私達の生活であり
文化のベースになっているから。

ともあれ。
菅先生の、一般人にもわかりやすい大きな功績であろう。

一つだけ紹介すると、鴨南蛮そばの歴史。
これも、私が気になっていたことの一つであるが、
わかっていなかった。
私は、ひょっとすると意外に新しく、明治以降ではないか、とも。
だが、この研究では、文政の頃、1820年代、馬喰町の
[笹屋]というそばやで出され有名であったという。
様々な史料があるようだが、かの「南総里見八犬伝」の
曲亭馬琴の日記、文政10年(1827年)の項に「火事跡見物の
帰りに馬喰町の橋の際で『鴨そば』を食べた」(当書)という
趣旨の記述があるよう。値段は当時の天ぷらそばなどよりも
やはり、ずっと高価であったとのこと。また、鴨ではなく
当時よく食べられていた雁が使われることも多かったという。

鴨に限らないことになるのであろうが、鳥、野鳥食というのは
他の豚、牛肉食が活発になり、明治以降衰退していったのだが、
であれば、鴨南そばというのは、江戸期に既に食べられていた
というのは至極あたり前のことになろう。すると、今の
鴨南蛮は明治以降一度多少衰退した時期があり、また、近年、
復活してきたとみるのが正しいのかもしれぬ。

論文ほど難解ではないが、それでもかなりオタッキー
内容なので、読むのには根気が必要かもしれぬが、
ご興味があれば、kindleでも読めるようなので、是非。

さて。
鴨肉。

これは旧臘に内儀(かみ)さんが近所の鶏やで、
買ってきた。
東京だけなのかどうか、わからぬが、鶏肉だけ他の
牛豚肉店とは別れているところがある。
その鶏肉やで、毎年買っている。

ハナマサのちょっとアヤシイ、鴨肉ではなく、
ちゃんとした国産の合鴨。見事なぶ厚い脂身。
これだけで、3000円ほど。

菅先生によれば、江戸期の江戸では、鳥肉食が盛んで
あったのだが、当然のごとく、野生の鳥を獲る人がおり
流通があり、日本橋の魚河岸に、水鳥市場といって
鳥を扱う市場があり、問屋があったという。
ここで小売りもしたよう。また、あるいは、振り売りの
魚やのようにここで買って、江戸市中方々に小売りをする
ような者もあったのかもしれぬし、町に鳥肉やもあった
可能性は高かろう。どちらにしても、鳥食は産業として
ちゃんと出来上がっていたといってよかろう。
また商売なので、幕府の統制も受け、記録、文献史料も
ちゃんと残っているようである。
やはりちゃんと調べられるのである。

ともあれ。こうしたことが、今も鶏肉だけ業態が
分かれていることに繋がっている、のであろう。
(これもちゃんと調べられそうである。)


つづく

 

 

 

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