4344号
日にちが前後するが、これ、書いておきたい。
5月23日(火)第一食
雨で少し肌寒い。
雨だと、なぜか、御徒町の[珍萬]に
焼きそばを食いに行きたくなる。
大塚行きのバスで一本というのよい。
14時前、到着。
雨降りのこの時刻でも、ほぼ満席。
かろうじて空いている、カウンターに掛けて、
焼きそばと餃子2個のセット、860円也、を頼む。
焼きそばが、きた。
酢をかけまわして食べる。
ちょっと中央が盛り上がったような、
パスタのタリアテッレのような、ちょい太の平麺。
塩とオイスターソースであろうか。
私は必ずしもそうは思わない、今でも十分通用する
定番の焼きそばだと思うが、この店では、昭和風
などと書いてある。
ここの開店は食べログによれば1950年(昭和25年)。
戦後すぐ。立派な大老舗、で、ある。
餃子2個は少し時間差できたので、写真を撮り忘れて
しまった。
うまかった。
勘定をして、出る。
さて。
御徒町駅ガードで道を渡ろうと信号を待ちながら
ふと右上のガードを見上げた。
すると、ひょんなものに目が留まった。
なにかというと、これ。
JRのガード、鉄橋。
なんというのであろうか、これ。
JRの橋には、どこかにこういうものが掛かっている。
なにが、というと、この橋の名前。
「切通橋架道橋」。
JRの橋というものの名前はできた当初から
変わっていないのであろう。
まあ、変える必要もなさそうである。
それで、昔の名前がそのまま残っていると、
考えてよいのではなかろうか。
旧町であったり、昔のその界隈の呼び名、通りの名前
などが付けられていたりするわけで、よく興味を
惹かれるのである。
特に、JRの新橋から神田は、ご存知のように古い
レンガ造りの高架が残っており、ガードもたくさんある。
へー、と思う名前に行き当たることが多いのである。
「切通橋架道橋」。
架道橋というのは、こうした高架線の下を道路が
通る場合に掛けられている橋のこと。
一般には断崖のある場所に道をなだらかに通すため、
崖を崩したところ。鎌倉などが思い浮かぶ。
この界隈で切通といえば、もちろん「湯島の切通し」。
湯島天神の北側に湯島・本郷の台地から御徒町方向に
通されている。坂の名前も切通し坂という。
江戸の頃からあった。
ランドマークといってよろしかろう。
雪の切通し坂は「柳田格之進」という講談ねたの
落語にも出てくる。
湯島の切通しは今、春日通りであり、この御徒町駅前の
架道橋の下も春日通り。
もしかすると、以前、この架道橋ができた頃は、
この通りそのものが「切通」と呼ばれていたのでは
なかろうか。“切通”に掛かる橋ということで。
この通りの御徒町駅前あたりはもちろん切通しではない。
少し離れたこの場所で切通橋と名付けるのは、通りの
名前と考えるのが自然であろう。
あくまで通称の範囲は出なかろうが。
では、それはいつ頃?。
この架道橋がいつできたのか。
御徒町駅の開業は大正14年(1925年)。
駅の開業と高架は同時。
(当時は鉄道省東北線の一部として。)
この大正末期、この通りは、切通、と呼ばれていた?。
ともあれ、これ、他の史資料はまったくなく、裏は
取れていない。
ちょっと周辺情報をみてみよう。
以前に切通し坂から、御徒町まで真っ直ぐに通ったのは
いつだったのか、考えてみたことがあった。
「御徒町のこと」をご参照。
江戸の地図 湯島本郷側
下谷側
江戸の頃から明治の初期まで、切通し坂は真っ直ぐ東には
通っておらず、坂を降りたらT字路であった。
左に曲がって、池之端仲町通り経由か、右に曲がって、
湯島天神男坂下からの通り、経由で広小路に出ていた。
本郷台地と御徒町の行き来には若干遠回りであった
のである。
これが明治30年の地図では既に切通しからの道が
通されている。
通ったのは、明治25年から30年のどこか。
ともあれ、切通し坂から真っ直ぐ東へ向かう通り
ができて、この通りそのものも、切通と呼ばれるように
なった?。
可能性は高いと思うのだが。
珍萬
台東区上野3-28-10
03-3831-8801
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