浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



歌舞伎座・吉例顔見世大歌舞伎 その4

dancyotei2017-11-13



引き続き、11月の歌舞伎座「顔見世」の昼。


今日は最後の「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」。
別名、直侍(なおざむらい)。


もともとのタイトル、外題は「天衣紛上野初花(くもにまごううえのの
はつはな)」。また、河内山と直侍、ともいう。


河内山宗俊という江戸城の御数寄屋坊主と御家人
片岡直次郎が悪事を働くという実話が元の話し。
天保六花撰」という講談の続き物が原作。


この「天衣紛上野初花」は直侍と河内山の話しが並行して進むが
その直侍の部分のさらに一部を抜き出して上演する場合、
「雪暮夜入谷畦道」という外題になる。


私が観るのは三回目。


2010年


これは新橋演舞場で「天衣紛上野初花」としての通し。
直侍は今回と同じ当代菊五郎


そして、今年の正月


染五郎の直侍。


この芝居のこと、最初に書いたが私にとって特別な作品。
今までもなん度も書いているが、
いつも以上に(?)念入りに書いてみたい。


作は、かの、河竹黙阿弥先生。


初演は江戸ではなく、明治も御一新から随分とたった、14年(1881年
3月東京新富座。(ただし別外題、別劇場で明治7年に元になる作品は
上演されている。)


この頃はまだ歌舞伎座はなく新富座に加えて、江戸から続く三座の
中村座市村座、さらに今の明治座の前身の千歳座の四座が主な劇場。
新富座江戸三座のうちの守田座明治8年に改称したもので
中央区(当時京橋区新富町にあったのである。


作者の黙阿弥は文化13年(1816年)の生まれで明治26年1893年)に
満76歳で亡くなっており、この作品を書いたのは、65歳。
幕末から明治の歌舞伎界に多数の作品を残している。


代表作に「三人吉三」「白波五人男」といった俗に白波物
と呼ばれている泥棒を描いた作品群があるが、これらの多くは
江戸期。


江戸と明治の両方に作品を残しているというのが
この人の大きな特徴で、いろいろな意味で
魅力になっているといえよう。


江戸から明治と世の中が変わった。
むろん、将軍お膝元の江戸も東京と名をかえて
御一新、文明開化の時代となったわけである。


当時、河竹新七、後の黙阿弥翁は江戸期にも先の
白波物などを世に出した花形作者であったわけである。
こういう人が、明治になってどんなことを考えて、どんな
作品を生み出したのか、で、ある。


ここで、黙阿弥先生の伝記を書くつもりはないのだが、
この「雪暮夜入谷畦道」という芝居は、明治になった
黙阿弥先生の代表作としてわかりやすい。


また、江戸人が明治初期の東京でどんな心持で
生きていたのか、ということもこの芝居から
透けて見えているように思うのである。


今回も直次郎を演じるのは当代菊五郎


この直侍は、音羽屋、尾上菊五郎代々の芸と
いってもよいのであろう。
初演は当代のお爺さんの五代目菊五郎


團十郎歌舞伎十八番に代表される時代物。
菊五郎といえば、なんといっても世話物。


歌舞伎というのは時代物、いわゆる当時の時代劇で
かたい武士の話しを扱ったものと、当時の現代劇、
江戸庶民の話しを扱った世話物に大きく分かれる。
(世話物は落語でいえば、人情噺といえばわかりやすいか。)


菊五郎が代々得意としてきた世話物も多くあるが、
この直侍はやはり代表的な作品といってよいだろう。


さて。


幕が開くと、雪の降る夜。


本舞台に、鼠色の壁でなんの装飾もない殺風景なそばや。
そばやの老夫婦と、そばをすする男二人。


場所は入谷。


むろん、今の入谷ではない。


当時は入谷“村”で、入谷田圃などとも呼ばれていたが、
江戸の町屋がちょうど途切れて、田園になるあたり。


西隣は根岸で、田園風景に裕福な商家や武家の渋い隠居所、
寮(別荘)などが点在している風雅なところ。(落語だと「茶の湯
が舞台。)東は田圃をはさんで吉原。(歩いて、10分、15分。)


そこに花道から直侍登場。


雪なので素足に足駄(あしだ)、藍微塵(あいみじん)の着物を
尻っ端折り、黒襟の付いた綿入れ半纏を引っ掛け、豆絞りの手拭いで
ほっかぶり、肩に開いた傘を担いでいる。


入谷そばやの場という。


そばやは下手側入口、腰障子を入ったところ左に竃(かまど)があり
そこに主人老夫婦。婆さんはまな板でねぎなぞを切っている。
右側が小上がりの座敷。つい立と木製の四角い火鉢。
壁に品書きが貼られている。


このそばやの舞台装置というのは、どうしても
浅草並木通りの[藪蕎麦]を思い出してしまう。


土間があって、小上がり。
テーブルはあるが、装飾らしい装飾はなく、
建て替えてさすがに鼠色ではないが簡素な白い壁。
紙に手書きの品書きが貼られている。
(もしかするとこのそばやの舞台装置が頭にあったのかもしれぬ。)


こんな場末でどちらかといえば、薄ぎたないそばやの場面だが、
これが煎じ詰めると、江戸・東京の男がそばやでどう振る舞えば、
粋なのかを見せるためのものといってよいのである。


もちろん、次の場面につながる複線となるような
ことも出てはくるが、必ずしもそばやでなくとも一向に
かまわない。


初演の五代目菊五郎は、先に書いた衣装、扮装も然りだが、
それ以外にも、ここで粋で鯔背(いなせ)な江戸っ子を
描き出すために実に様々な工夫を入れ込んだのである。


今は歌舞伎といえば、女性のものとなってしまったが
戦前までは、特に下町の、東京の男には毎月芝居に行くのを
たのしみにしていた者は多かったのである。






つづく




画 豊原国周筆 明治26年 直侍 五代目尾上菊五郎
みちとせ 八代目岩井半四郎