浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



初芝居・歌舞伎座・寿初春大歌舞伎 その4

dancyotei2016-01-07



1月3日(日)



歌舞伎座初芝居。



最後の幕の「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」を
書いている。


河竹黙阿弥翁の作品である。


以前にも紹介しているが『河竹黙阿弥明治維新』(渡辺保・新潮社)
という本がある。


江戸末期に活躍し「三人吉三」「白波五人男」などの数々の白波物
(泥棒を扱った作品)を世に送り出した黙阿弥であるが、


この人は明治まで生き残り歌舞伎作者を続け、今でも上演される
作品を明治期にも多く残しているわけである。


この作品もその一つ。


渡辺保氏(歌舞伎研究家・批評家)は『河竹黙阿弥明治維新』で
この「雪暮夜入谷畦道」の特に「そばやの場」について丁寧に
論じている。


昨日も書いたように「そばやの場」は江戸の郊外、
吉原からも遠くない入谷田圃にある、まあ、場末のそばや。


そんなところでの1シーン。


ここで黙阿弥は江戸の粋、美学を表現したかった、
と、渡辺氏は語っている。


こんな場末のそばやがなんでいいのか。


現代においてすべての人になかなかわかってもらえない
とは思うのだが、これが江戸の美学、なのである。


例えば、浅草雷門、並木にある藪蕎麦。


あのそばやなどが、私はイメージとしては一番近いのでは
ないかと思っている。


並木の藪蕎麦はテーブルの席もあるが、
土間があって座敷があり、壁には品書きが貼ってある。
それ以外の装飾はほとんどない。


ねずみ色の壁。


座敷には木製の簡素な箱型の火鉢と同じく仕切りの衝立。
お膳はない。
そばは丼を手に持ってたぐる。
(盛りの場合どうなるのか。その時だけお膳が出されるのか。)


舞台装置としては下手側に竃(かまど)があって、老夫婦が、
そばを茹で燗をつけ、つゆを温め、客に出す。


昨日染五郎の直侍は、素足に足駄と書いたが、
前に観た菊五郎は素足に藁の草履であったと記憶している。
花道の直近で観ていたので、菊五郎の足がよく見え、印象に
残っているので間違ってはいなかろうと思う。
草履は音羽屋の演り方なのかもしれない。


薄く積もった雪である。草履の方が、寒さが際立つ。


綿入れ半纏に尻を端折った着物。
股引のようなものは履いておらず、すねむき出しの素足。


頭には手拭いを被っている。
これは雪が降っているというのもあろうが、
お尋ね者なので、顔を隠すという意図。


この手拭いは、イヤホンガイドでは確か、半絞りと聞こえたが、
薄い色の豆絞りに見えた。
また、この手拭いの被り方が難しいという。
そのままかぶると、野暮になる。


かぶったおでこの中央にくる部分にちょっと折り目が
つけてある。
これがポイントとのこと。


どうでもよいことようだが、こういうディテールが
江戸の粋を表現するには肝要なのである。


そばやに入ってきて最初の台詞は
「親爺、酒と天を熱くして」であったか。


「天はヤマでございまして」、と親父。


天ぷらそばを天と略している。
ヤマは今でも鮨やなどの符丁に残っている。
品切れのこと。


当時の東京の観客はこの粋がむろんよくわかり
菊五郎の直侍はおおいに人気を博したわけである。


余談めくが、江戸(東京)の、そばやであったり、
鮨やであったり、池波先生なども書かれているが、
こういうところで大人の男がどういう言葉を使って、
どのように振る舞うのか。
これにはやっぱりある種のスタイルがあり、
ルールがあって、していいこといけないこと
どうしたら野暮なのか、粋なのか、ちゃんとあった
のである。
江戸・東京の男はこういうところに気を使ったのである。


個人的には私自身もそうありたいとは思うのだが、
東京にはもはやそんな気を使わねばならないところも
気分も、悲しいかな完全になくなってしまったように思う。


どうでもいいように見えるそばやの場面であるが、
これが“江戸”なのである。


そばやの場を書いていると切がない。
そろそろまとめに入らねば。


この芝居の初演が明治14年
この年、東京では、第二回の内国博覧会が
上野の山で開かれている。


当時、田舎からも多くの人が東京に出てきて
博覧会を見たり、隅田川の舟に乗ったり、人力車が走り、
銀座に煉瓦街ができガス灯が灯り、新橋に鉄道が開業し、
文明開化が始った東京見物をして歩く人が多かった。


この東京見物には必ず(今でも田舎から出てきた人はそうだが)
歌舞伎見物がセットになっていた。そういう人々に向けて
黙阿弥はこの芝居を、過去の遺物として滅びつつある
江戸の美学、粋を見せたかったのではないか、と、
渡辺氏は語っている。


歌舞伎芝居イコール江戸、ではない、のかもしれぬ。
今回の三幕目のような、近松作の上方ルーツの和事の
芝居も江戸期からあって江戸でも演じられてはいた。


だが演じたり作っていた人々のほとんどは江戸人であり、
彼らは江戸人であることのアイデンティティーや誇り、
矜持というものを、強く持っていた。
(まあ、今はほとんど死語になっていると思うが、
私の子供の頃は、まだ江戸っ子という言葉が残ってはいたが。)


私が2010年にこの芝居の菊五郎演じるそばやの場を観た後
東京で上演されたのは12年1月の平成中村座
たった一回だけのようである。


今となってはもはやこのそばやの意味やよさが
わかる人もほとんどいなくなってしまったということか。


亡くなった勘三郎江戸歌舞伎人のアイデンティティーを
強く持って、再興させようとしていたように思うのだが、、。


と、なると、あとは、本家音羽屋。
菊之助に期待するしかないのか、、。






国周 画 明治14(1881年)東京・新富座
三千歳 八代目岩井半四郎