引き続き、11月の歌舞伎座「顔見世」の昼。
「雪暮夜入谷畦道」、そばやの続き。
このそばやの場では、そばやで男がどう振る舞うのが
粋で鯔背(いなせ)なのか(今風にいえば、カッコよいのか)を
伝えようとしていることを書いている。
ちょいとここでそばでも食っていこうか、と、
直次郎はそばやの軒下で、傘を閉じ、傘の雪を払って、
立てかけ、障子を開ける。
入って、そばやの爺さんにいう台詞。
直「テンで一本つけてくんな」
爺「生憎、テンはヤマでございまして」
直「なにヤマか。んじゃ、かけだ」
テンというのは天ぷらのこと。
つまり、天ぷらそばに酒を一本、燗をつけてくれ、
という意味である。
ヤマというのは、今でも鮨やなどで使っている符丁だが
切れていること。
実は、直次郎はお尋ね者なので、ほっかむりは
雪のためでもあるが、顔を隠すため。
このため、そばやに入っても、ほっかむりは
したまま。
それもあって、そばやの中での直次郎の台詞は
ほぼこれだけて、あとは身振り手振り。
できるだけ口をきかないようにしている。
「テンで一本つけてくんな」
なんて台詞、そばや(並木[藪])でいってみたいもの
である。
(また、どうでもよいが、一本つけるのはノーマル温度の燗酒であって、
“熱燗”ではない。特に湯気の出るような燗のつけ方は、嫌ったもの
である。)
ふた件(くだり)ほどあって、直次郎が勘定をしてそばやを出て、
そばやの場が終わる。
舞台が半回転しそばや前の道、隣の家の塀前。
ここで同じくお尋ね者の、弟分の暗闇の丑松に出会う。
ここでの台詞もちょっと引っ掛かるものがある。
ただ例によって、筋とはまったく関係ない。
二人ともこれから、江戸を売る(高飛びをする)。
しばらく会えないから一杯やりたい。
上野、坂本あたりなら、気の利いたところもあるが
こんなところだから、場末のそばやくらいしかない。
“テンや、玉子のヌキ”で一杯やるのが関の山だ、
というような台詞があるのである。
おそらく、普通の方であれば、聞き流しているくらいであろう。
“テンや、玉子のヌキ”、で、ある。
テンのヌキは、もちろん、天ぬき。
まず、この頃、明治の10年代、既に天ぬきがあったということである。
意外に古いと思うのだが、この芝居自体が、時代設定は江戸の頃であり、
黙阿弥先生も初演の五代目菊五郎も明治以前の生まれなのでおそらく
天ぬきなどで呑む習慣は江戸期には既にあったと考えてよいだろう。
おもしろいのが、テンと並べて玉子と言っている。
天ぬきから考えると、玉子のそば(月見?)の
そばぬき、に、なる。
最近、鴨のヌキから発展して牛肉やら、豚肉やらで
やってみている。(ただ、私の場合はかけのつゆではなく、
もりそばのつゆに具を入れて、具を肴にし残りのつゆをつけ汁にする
というものだが。)
この玉子版ということになる。
つまり、これで呑む、のか。
(これは実際、やってみているので、後程。)
さらにどうでもよいが、ヌキのイントネーション。
これもポイント。
“テンや、玉子のヌキ”という場合、天ぬき、鴨ぬきではなく、
ヌキだけ独立していう場合「キ」ではなく「ヌ」にアクセントがくる。
これが粋な江戸弁。
さて。
この場面があって、次が大口屋寮となる。
大口屋というのは、吉原の妓楼・女郎屋。
おそらく大見世(おおみせ)(実在の名前かどうかは
調べきれていない。)
そこの三千歳(みちとせ)という花魁と直次郎はいい仲。
高跳びをする前に会っていこうということで
入谷くんだりまで忍んできたのである。
そばやと雪の降る前の道から一転して、昼のように明るい。
ここの幕開きが、よい。
このために作った、清元「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)」
が唄われる。
清元の中でも今に至っても名曲といわれているそうな。
「冴えかえる春の寒さに降る雨も、暮れていつしか雪となり、
上野の鐘の音も氷る、細き流れの幾曲り、末は田川へ入谷村・・・」
清元に限らず、私は古典の音曲、せいぜい都々逸はくらいで、
からきしわからないのであるが、わからないながらも、ここの
清元は、すばらしい。
細く高い声なのだが、参考書を読むと新内風に作られたという。
それで清元というのが本来こういうものかどうかはわからないのだが、
これから展開される、直次郎と三千歳の切ない別れを
暗示しているよう。
また、この界隈の地名を唄い込んだ掛け言葉がよいではないか。
むろんこの清元の歌詞も黙阿弥先生作である。
最初に昼のように明るい、と、書いたが、これも演出。
吉原の遊女屋の寮というのは、まあ、別荘。
三千歳花魁は直さんがきてくれないでの、ぶらぶら病。
それでこの別荘に養生にきている。
遊女屋というのはばかに花魁の扱いがよいと思われるかもしれぬ。
これは三千歳が大口屋のお職(おしょく)、つまりナンバーワン。
それで大切にされている。普通であればここまでの扱いでは
なかったと思われる。
ともあれ。
吉原というのは、夜でも、不夜城などといって、真昼のような
明るさというのを売り物にしていた。
しかし、別荘で同じようなことはしていないはずであり、
また、衣装も部屋着といって、吉原にいる時と同じ格好をしている。
養生にきているのでこれも普段着のはず。
寮であるができるだけ吉原らしく見せるようにしていたようなのである。
つづく
画 周重 明治14 年(1881年) 東京 新富座 天衣紛上野初花
片岡直次良 五代目 尾上菊五郎 三ちと瀬 八代目岩井半四郎
※初演時のものである。