2月15日(水)昼
AMつくばで、昼をはさんで、
五反田へ戻る。
TXで秋葉原まで戻り、山手線という
ルート。
昼飯は?。
別段、大急ぎで戻らなくてはならないという
ことでもないので、どこかで途中下車しても
よいのであるが、秋葉原駅構内で、かつ丼と
決めた。
秋葉原駅の1階にちょっと小奇麗な
カフェテリアスペースがあって、
そば、さぬきうどん、プロントなど入っており、
時間のない時には、重宝している。
ここにとんかつやも入っている。
エキナカにしては、まあ食べられる。
ちょっと新しいかもしれぬ。
このとんかつやは、銀座[梅林]という。
私は知らなかったが[梅林]というのは
昭和2年の創業。
本店は銀座7丁目でフェラガモの裏、
交詢社通り沿い。
昭和2年というのは90年前、むろん戦前。
わが国初の地下鉄、銀座線が開業した年で
ついでながら、私の父が生まれている。
ちょっと、この頃を思い出してみたい。
昭和元年というのは大正天皇の崩御の12月25日から
大晦日までなので、実質的には昭和2年が
昭和の最初の年といってもよい。
実際ところ、昭和2年の2月に大正天皇の御大葬が営まれている。
世相的にはどんな頃か。
大正12年に関東大震災が東京の街を襲い、
ほぼ壊滅状態となっているが、そこから4年、
その復興期。
いわゆる震災復興事業が活発に行われている。
お茶の水の聖橋が架橋、また、隅田川に蔵前橋、
駒形橋、さらに千住大橋もできている。
また、都心部では復興小学校などと呼ばれて今もその姿が残っているが、
モダンなデザインの小学校の校舎がたくさんできている。
拙亭近所の今は台東デザイナーズビレッジになっている
旧小島小学校もその例である。
民間では銀座の数寄屋橋に近代的なビルの
朝日新聞社屋ができたり、わずか震災後4年だが、
目覚ましいともいえる復興がされはじめている。
(ある種、復興景気ともいえるのか。)
一円で東京市内であればどこでも行ける円タク、
あるいは、円本という一冊一円の文学全集が
ブームになったのもこの頃。
この後、昭和の大恐慌は昭和4年から、
さらに日中戦争は昭和12年に始まって、
暗い時代になっていくが、まだまだきな臭い空気はない頃
といってよいのであろう。
ある意味、震災前の大正デモクラシー、モボモガなどの
リベラルで、豊かな空気が蘇っていたような気もする。
池波先生も震災の年の生まれであるが、まあこの頃。
不景気の時代にはなっていくが、東京は自由で比較的豊かな
気分で、その中で成長したといってよいのだろう。
ともあれ。
とんかつ、銀座七丁目の[梅林]。
今のこの界隈は銀座の高級クラブ街だがこの頃の
銀座7丁目、8丁目といえば、明治からのいわゆる新橋の
花柳界の中心である。芸者さんのいる置屋、待合があった。
新橋の花柳界は東京で新柳二橋などと呼ばれ、
江戸っ子好みの柳橋に対して、明治以来政界の大立者も
足繁く通った花柳界として覇を競ったところ。
また、とんかつやというのも、ある種
時宜を得た商売であったといってよろしかろう。
以前から書いているが、東京の老舗洋食やというのは、
花柳界であったところが少なくない。
(根岸[香味屋]、人形町[小春軒]その他。)
その洋食やの人気メニューであった豚のカツレツが独立し、
とんかつやという業態が現れ始めたのが明治末から大正。
昭和2年に、とんかつやとして新規開業している、
というのは、まさに流行りの商売を始めたという
ことであろう。
そして、その後、戦前のどこかで、
とんかつの玉子とじ丼である、かつ丼が生まれている。
前にも見たことがあるが、今の東京のとんかつやには
かつ丼というメニューがないところが少なくない。
一説には、かつ丼は蕎麦やで生まれたともいい、
とんかつや発祥ではないのがその理由かもしれない。
ともあれ[梅林]の本店にはかつ丼の上にさらに
割っていない玉子の目玉焼き状態のものがのった
スペシャルかつ丼というものまであり、
かつ丼にも力が入っていたことが窺える。
本店がかつ丼1,000円のところ、テナントだからか、
750円也。
まあ、ちょい高めではあるが、許容範囲であろう。
アップ。
アップにしても、別段見栄えがするような
顔ではない。
味は。
さすがにとんかつやのもので
かつは厚く大きい。
かつ丼というのは、うまいものである。
好物の一つ、かもしれない。
町の蕎麦やで食べても、十分にうまいし、満足ができる。
最近、チェーンの牛丼やのような
かつ丼チェーンもあるが、入ったことはないので
わからないのだが、かつ丼というのは、ある一定水準以上あれば
満足ができるのだと思われる。
偉大なメニューかもしれない。