浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



丼もの考察 その6

dancyotei2012-02-16

丼もの考察 その6

さて。



明治初期から、戦前まで、5回に渡って、
丼をキーワードに新聞をあたってきた。


この試みを始めた当初の動機は、かつ丼が、
いったいいつ生まれたのか、が、知りたかった。


一説には、早稲田の蕎麦店、三朝庵である、または、
早稲田の学生である、ともいう。


ウィキペディア


また、年代は大正10年(1921年)であるとも。


昨日まで、読売新聞の記事をみてきて、
昭和14年の『しんみりかつ丼』が、かつ丼の初登場であった。


もう一紙、朝日新聞もみてきた、と書いたが、
朝日でのかつ丼はもう少し早く、昭和7年、に初登場をしていた。


その内容をちょっとだけ紹介する。


これは滝野川 尾久の小学校、怪火事件。


容疑者として挙げられた少年AとB(どちらも16歳)。
実はAの供述は出鱈目で、放火魔のBが真犯人であった、
という事件。


 感化院(当時の犯罪を犯した少年が入れられる
 施設。今の児童保護施設。)に入っていた少年Aが脱走。


 Aは横浜に赴き、町の人に50銭を恵んでもらい東横電車で
 渋谷まで出て、そこから王子の父の元に帰った。
 その間の時間と足取りからは小学校へはいけない。
 これを示されたAは頭をかきながら、神奈川県鶴見署に
 捕まった時は、腹はペコペコに空いて、
 罪になるような答えをするとうまいカツドン位は
 食べさせてもらえると考えて、刑事の誘導のままに
 うその自白をしたと、悪びれもせず自白した、という。


読売が昭和14年、朝日は同7年がかつ丼初登場。


この頃には、一般化していた。


その上“取調室のかつ丼”というのが、もう出てきている。


昭和の7年に一般化していたとなると、
震災をはさんでいるので、もしかすると、
大正の10年にかつ丼は生まれていたというのは、
意外に、信憑性はあるのかもしれない。


いずれにしても、昨日書いたように、明治末、
洋食のカツレツが独立してとんかつとなり一般化、
さらにかつ丼の誕生、一般化というのが、
大正の15年間と昭和のヒトケタの10年弱、都合
20年と少しの間にあいついで、起きていたということである。


まとめてみよう。





1.鰻蒲焼+ご飯の、うなぎめしが、明治の10年以前。


2.天婦羅丼が明治25年頃。


3.明治の30年中頃には、○○ドン、という言い方の一般化。


4.(明治末から、大正初め頃、とんかつの独立)


5.とんかつの一般化、親子丼が大正ヒトケタ。


6.かつ丼が昭和ヒトケタ。



に、それぞれ一般化していた。


つまり、実際の誕生はそれより前。
従って、例えばうなぎめしならば、江戸の頃から
あった可能性はあるということである。


事実、先に書いたように、カツ丼は大正10年という説もあるし、
親子であれば、人形町玉ひで、では明治20年代、30年までには
できていたと、いっている。(同店ホームページより)


親子についていえば、玉ひでの例を引くまでもなく、
軍鶏鍋屋は東京下町各所にあり、江戸の頃から
食べられていたことは事実であろう。
これを玉子でとじて丼飯の上にのせるのは簡単に
考えそうなことで、大正の頃一般化したとしても、
明治の頃からあったのではあろう。


さて。この表をみてもわかるが、明治前半よりも
明治末から、大正、昭和とかけて、急ににぎやかに
いろんなものが登場している。


これは取りも直さず、日本という国の
近代化、豊かになるスピードが速くなったことに
同期しているのであろう。


さて。


今回、調査して、予想通りだったことと、
意外だったことと、ある。


予想通りだったのは、
1)とんかつ一般化が大正の頃。
2)親子丼が先にあり、その後カツ丼が生まれている。
(カツ丼は親子の鶏がカツに替わったという仮説を立てていた。)


意外だったのは、
1)カツ丼は、戦後の可能性もあると思っていたが
戦前には間違いなくあったということ。


2)鰻丼が、うなぎめし、という名前で明治ヒトケタには
あったということ。


それにしても、丼もの、というのは、なんであろうか。


よく説明されるのは、忙しい人の昼飯に、
ご飯の上におかずを載せたということ。


それで、明治の中盤以降、兜町やら時間に
追われている人々がたくさん出てきて、丼もの
が生まれた、と。


しかし、うなぎめしは既に、明治ヒトケタからあり、
必ずしもそうではないのではないか、とも
思えてくる。


それとも、うなぎめしだけ、例外であったのか。


以前に考えたことがあったが、ご飯の上に
なにか載せる、というのは、日本人の本来の
食事作法では下品なことである。


丼ものはそれに反しているわけである。


そこで、忙しいから、生まれた、というのは
説明としてはリーズナブルではある。


実際のところ、天婦羅丼も明治20年頃生まれている。


天ぷらだって、江戸の頃からあり、天ぷらめしが
うなぎめしと同時にあってもよかったはずである。


やはり、うなぎだけが例外であったのかもしれぬ。


(以下、その理由の推測、で、ある。
今では天ぷらは高価なものだが、記事にも出てきたが
天ぷらは屋台でも出されるものであった。
これに対して、うなぎ蒲焼は、もっと高価なものであった、と
いわれている。これは、うなぎの獲れる量の問題。
江戸の頃から戦前までは、うなぎはすべて天然もので、
養殖が始まった戦後と比べ、量が圧倒的に少なかったからである。
それで、蒲焼だけを食べるのはもったいない。
蒲焼だけでちゃんと一食になるように、
ご飯に載せて食べることが、古くから一般化していた
のではなかろうか。 〜ちょっと無理があるか?!)


もう一つだけ、考察。


親子丼が大正以降に一般化している理由である。
忙しい人のための丼ならば、もっと前に一般化しても
よいではないか、と。
カツ丼もそうなのだが、これは玉子の値段が関係しているのではないか
と、思うのである。価格を調べてみなければわからないが、
もともと玉子は高級なものだったと聞いている。
それが大正の頃には比較的安く、使いやすくなり、親子が一般化し、
カツ丼が生まれる素地ができたのでは、と考えている。


だらだら書いてきてしまい、まとめにもなっていないような
気がするが、そろそろ終わりにしよう。


私とすれば、今回の新しい試みの、明治からの新聞調査で、
だいぶ、丼というものがクリアになった。
(よかった、よかった。他のことでもこれは使えるぞ。
そして、副次的なものだが、明治初期の食い逃げのおもしろさ、
これは、大収穫であった。)


それでも、まだ疑問として残っていることがある。


それは、今、なぜカツ丼が(とんかつやになく)
蕎麦やにあるのか。これは大きな疑問。蕎麦やで生まれたのか?
だとしたら、なぜか?
昨日の『しんみりカツ丼』でも、今日の『警察のカツドン』でも
これは依然として、不明のままではある。



以上、『丼もの考察』これでお仕舞い。
最後までお読みいただいた方々に、感謝、で、ある。