浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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青天を衝け!・・・大転換期の渋沢栄一

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3941号

さて。
先日、NHK大河「青天を衝け」について不満を書いた。

以前から私は書いているのだが、江戸から明治、
特に、江戸・東京人のこの時代の変化のことがとても
気になっている。

また、これは同時に明治という時代の評価、
ということにもつながっている。

動機としては、明治という時代の評価がなにやら
違っているのではないか、ということなのである。

特に、司馬遼太郎NHK大河、という組み合わせの
中で、流布されている明治評価である。
端的にいえば、明治万歳、という評価、で、ある。

明治という時代の評価はとても大事である。
なんとなれば、明治という時代は、昭和の太平洋戦争の
敗戦という結末を迎えているということ。
そして、もちろん、その後を含め、近現代の我が国の
基(もとい)となっている時代であるということ。
時代は変わっているようだが、明治は戦後の現代まで
引き続いて生きてもいる。

歴史認識として明治という時代を、万歳!で
片付けてしまってよいのか、という問題意識、なのである。
特に、前にも書いたが、NHK大河というのは日本人の
歴史認識に多大な影響を与えてきているからである。

今日は、細かく書くと長くなるのでやめるが
基本的な私の立ち位置はそんなことなので、
江戸から明治に生きた人々を丁寧に考えてみなければ
いけないのではないかと考えている。

今までの捉え方があまりにも大雑把。
もしくは、司馬遼太郎先生のように、一方向からのみの
捉え方。幕末から明治の負の部分も正しく評価したい
のである。

歴史というのは、勝者のものという見方がある。
文字通り、勝てば官軍。今だにそうなのではないか、と。

江戸幕府天皇を担いだ薩長土肥・一部公家連合が倒し、
明治新政府ができたわけである。

倒された、江戸幕府関係者、戊辰戦争で新政府軍に
歯向かった東日本、東北諸藩士。負けた人々。
また、一部戦場となり大転換した江戸~東京に住んだ
一般の町民。
こんな人々から見た明治というのも大切な視点
で、ある。 昨年御徒町をみてみた

のもその一つであった。
あるいは勝海舟、これも長々書いたが三遊亭圓朝
河竹黙阿弥らもみてきた。

まさに渋沢栄一はこのただ中にいたのである。
武州深谷在の百姓兼商人の家に生まれ育った彼は、
一橋慶喜の家来となり、さらに幕臣になる。
渡欧、大政奉還静岡藩へ、そして大蔵省。

ここ数週、まさにこの時代の大転換期にあたっている。

このあたりの栄一の心の動き、考え、をドラマでは
さすがに今までになく、描いていた。

内心は新政府からのお呼びをよろこんでいる。
だが、自分が事業を立ち上げつつあった慶喜の静岡を
捨てるのは忍び難い。慶喜との会見で、新政府に力を貸せ、
これが最後の命である、との説諭によって、心を決める
というなかなかの感動場面が放送された。

渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)

というのが出ているので、ちょっと読んでみた。

この静岡から新政府出仕「自伝」ではもっと
さらっとしている。
元来、この人、倒幕尊王攘夷のマインドであり、
成り行き上、静岡にきたが、天皇を頭にいただく
新政府からのお呼びは意外にすんなり納得して
受け入れているように書かれている。

慶喜とのくだりは「自伝」にはない。史実ではなく
ドラマ上の創作とみてもよいのかもしれぬが、
どうだろうか。(であれば、美化しすぎである。
静岡など、スタコラサッサ、だったのかもしれぬ。
まあ、それではドラマとしては後味がわるいが。)

新政府側も栄一の一橋家出仕以前の倒幕攘夷思想・
行動はちゃんと取り調べ済で、問題なし。
これに加え、洋行帰り、実績も行動力も十分で、かつ
静岡に置いておいては危ないという側面もあり、
スカウトしたということでよいのであろう。

この「自伝」を読む限りは、一橋家出仕、幕臣の経歴は
彼にとって本来は不本意で、お尋ね者になり
行き場もなく仕方なく拾われて甘んじた、という
スタンスのようである。

意外にドライな人!?。
やっぱり変わり身が早い!?。
そしてこの間、俺が、俺が、とまあ、言葉はわるいが
計算と野心、出世志向は十分あったといってよさそうな
姿も「自伝」からは垣間見られる。

そうかもしれぬ。
経済人として、実績と名を成すには、それくらいの
現実論者で、上昇志向を持っていなければいけなかろう。
もちろん、頭も十分すぎるほど切れたわけだが。

やはり、右も左もよくわからず、ぼんやりと朝顔でも
作っていた下谷御徒町の幕府代々の御家人が、住む屋敷も
奪われ静岡へ引き移ったのとは、大きな違いがあった
ことはいうまでもなかろう。

この時の判断、心情は重要である。

一緒に、一橋家へ出仕した従弟の喜作は箱館戦争まで
従軍した。
むろん栄一と同じ武州の百姓あがりである。
ついでにいうと、新選組から同じく箱館までいって、
戦死した土方歳三武州多摩の百姓あがり。

一見、彼らの行動の方がすんなりと腑に落ちるような気もする。

だが喜作もほんとは、静岡へ行く選択肢もあったはずで、
いささか流されすぎ、という気もしなくはない。
土方は、京都で会津藩御用の新選組で、肩で風を切っていた
プライドで箱館で死ぬ決心をした。
だがまあ、その場に置かれれば、喜作も頭に血が上り、
そういう判断をする心持はわからなくはないか。

実際のところは、すべての旗本御家人彰義隊
参加したわけでもなく、箱館へも行ったわけではない。
むしろ少数。大久保一翁勝海舟など旧幕府→静岡藩当局は
箱館へ行くなと止めていたわけである。そして、静岡へ
ついて行った旗本御家人が多数。中で掛川の原野を
切り開き、静岡茶の基を作った人々もいた。それぞれの
人生である。

この違い、興味深い。

ともあれ、ちょっと掘り下げてみると栄一の頭のよさと野心、
変わり身の早さは指摘できると思うのだがどんなものか。

 

 

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