浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



御徒町のこと その6

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引き続き、御徒町のこと。

仲御徒町3丁目の鉄道用地化に伴う立ち退きになった、居付地主の
奥原晴湖という人が、明治の著名女流南画家らしいという件であった。

明治の女流画家奥原晴湖のウィキのプロフィールである。
天保8年(1837年)古河藩の大番頭の家に生まれ「蘭学者の鷹見泉石は
伯父」「16歳で谷文晁門の枚田水石に南北合体の画風を学ぶが、
やがて渡辺崋山に私淑し南画に転向する。」』(前ウィキ)
これ、ウィキの文面そのままだが、大番頭というのは、商家の番頭さん
ではなく、古河藩の重臣、という意味でよいようである。

「慶応元年(1865年)母方の親戚である奥原源左衛門の養女となり
下江して上野摩利支天横丁に住んだ。」(同)

これ!。上野摩利支天は徳大寺で、摩利支天横丁は江戸切絵図にも
ちゃんと書かれている。ズバリここ。やはり間違いない。
この奥原先生の自宅。

こんな方も、住んでいた。

高名な画家である。商業地へ投資目的で出入りするという
感じの人、ではなさそうである。

どちらかといえば、旧幕時代の御徒士ら、そこそこ以上の
身分の人々が住んでいた武士を中心とした静かな街に
近いようにみえる。
ただ、やはり、述べたように敷地内の通りに面したところに
二軒の貸し家はあった。

明治20年頃、御徒町のこのあたりに、こういう家もあった
という史実であろう。

ともあれ。
なぜ、この方が、ここに住んだのか、というのが今度は
気になってくる。

前記のウィキペディアの「慶応元年(1865年)母方の親戚である
奥原源左衛門の養女となり下江して上野摩利支天横丁に住んだ。」
の部分。

これが、史料にある立ち退きになった、今の二木の菓子東の
JRガード下の土地と同じところであったのか。近所で
御徒町であれば別の場所でもまあ、状況としては大差ないか。

古河から江戸へ出てきたのが、慶応元年とすると、
奥原先生はまだ28歳で、明治まではまだ4年もある頃である。

養父である奥原源左衛門という人は古河藩ではなく下総関宿藩
(現野田市)のやはり重臣のようである。元々この御徒町の家は、
奥原源左衛門の住まい、屋敷であったのではなかろうか。
そこへ古河から出てきて養父の家に住み、画家修業に励んだ?。

関宿藩というのは、利根川の水運に関わる場所にあり、
古河藩同様、代々譜代有力大名が藩主となっている。
江戸中期から幕末まで関宿藩主の久世家も幕府の老中を
務める家柄。その重臣の江戸の家が、御徒町にあったのは
不思議ではないかもしれぬ。江戸の藩邸にも住まいは
あったはずだが、藩邸の外にも別に家を持つというのは、
そこそこの地位であれば、あり得ることであろう。

そして、明治になり次第に奥原晴湖先生は南画家として身を立て
この屋敷も養父から受け継ぎ、新政府から「受領」あるいは
「拝借」となり先生個人のものとなったのではなかろうか。
まあ、推測ではあるが。

この界隈としては、奥原家はちょっと例外的なのかもしれぬ。

江戸から明治にかけて、幕臣はもちろん、幕府に近い武士の家は、
その社会的地位、立場が大きく変わっている。
落ちぶれ、一家離散、それこそ娘は吉原に、、なんという話も
聞かないではない。
徒士であれば、前に書いたように静岡へ無給で行った人もいた。
新政府の官吏になってそのままここに住むという選択は
しずらい人もいた。幕臣としての自分の意地もあろうし、
周りの目もあろう。

絵の道で認められ、養父から代替わりした晴湖先生であれば、
そのまま住み続けるのも問題はなかろう。

ちょっと余談のような奥原晴湖先生の話が長くなってしまった。
だが、こういうことが大切のように思う。

本論に戻そう。
この研究では他にもいくつか立ち退きになった地主の例が
検討されているが、追うのはやめる。

不在地主も多く、その地主から土地を借り家を建て、さらに
貸す。つまり土地所有者と家の所有者が別という、複層した
人々が関わっている例も多く見られたようである。

一般に土地、家が別々の所有関係になると土地の売却が
難しくなる。しかし、御徒町ではそれでもかなり活発に
売買がされていた。

江戸期から家、うわものは、分解し、移転して、建て直す
ということも普通にされており、また、材木も使ったものも
市場がちゃんとあり、再利用されていたという。

また、やはり、それだけの手間をかけても売り買いができる
ポテンシャルのある場所で、人気があったということであろう。

一方で、先に、土地は高騰、プチバルブのよう、と書いたが、
これは10年代。
それより数年前の地券発行直後は新政府から御徒士が納めた
土地でそれを無償で入手できた者もあったわけであるし、
払い下げにしても、入札などでもかなり安く手に入れられた
ようである。これも、その後売買が活発化した要因でも
あったようである。

「悪党の世紀」から戊辰戦争の混乱の中で、不安な日々を
送っていた人々もありながら、機を見るに敏、利に聡い人はおり、
儲けた人もいたことは十分に想像できよう。
また、その人々は、すぐに入れ替わり、失敗と成功が、
目まぐるしく入れ替わる街であった。

研究はここまで。

この後、御徒町はどうなっていったのか。
ここまでの明治30年くらいまででも、なんとなく、今の
御徒町の片鱗は見える。にわか地主、投機目的の人々が
頻繁に入れ替われば、小さな区画の家でごちゃごちゃ
とした雑多な街になることは納得がいく。

その後、御徒町に限らないが、東京は関東大震災と戦災を
経験している。特にまた上野・御徒町は、戦後すぐからの
闇市のメッカといってもよいだろう。
これらも今の御徒町に多大な影響を及ぼしていたことは、
皆さんもご存知であろう。

アメ横の魚介類、乾物などの安売り店、ガード下の輸入もの
の衣料品、化粧品などを売る店。さらに、宝飾品を扱ったり、
加工を行う店舗の数々。また、そこからインド系カレー料理店も
集中している。

闇市から安売り店、米軍放出品を売る店から舶来品を売る店などが
出てきたのはリーズナブル。
宝飾品からインド系の人々、さらにインド料理店が集まった。
これもわかりやすい。
そもそも宝飾関係は、御徒町の後背地の今の台東、小島、私の住む
元浅草が元々飾り物などを作る金属加工職人の町であったことが
要因といわれている。だが、これ私はもう一つ腑に落ちていない。
金属加工はこの地域に少なくとも明治からある。御徒町の宝飾品は
戦後?。戦前はなかったのか、闇市が要因?。といったこと。
これはまた、私の宿題としよう。


お付き合い、感謝。

 

「謝辞と愚痴」
今回の江戸から明治初期の御徒町、双木先生のお蔭で空白が少し埋まり、
この日記としてそこそこおもしろく書けたと自分では思っているのだが、
いかがなものであろうか。双木先生にこの場を借りて感謝申し上げる。

だが食い物以外の内容になると、現金なもので露骨にアクセス数が減る。
食い物と歴史とでは興味のある人が違うのか。人数も違う、のであろう。
だが、たまには書くぞ。私の書きたいことだから。
筆者としては、むろん皆さんに読んでほしいのだが。

 

 


参考
日本建築学会大会学術講演梗概集「江戸・下谷御徒組屋敷について」
鈴木賢次 1997

歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
― 下谷御徒町・仲御徒町を事例として ―」
双木俊介 2014