浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



御徒町のこと その2

f:id:dancyotei:20200810010319g:plain
御徒町のことを書いている。

まず、江戸時代に御徒町に住んでいた、幕府の家来、
徒士のことを書いている。

徒士、将軍の警護、というのは戦時であれば重要な
役目であったはずだが、はっきり言って、平和が続いた頃、
日常は超暇な役目である。
数日に半日、番所に立ってるだけ。南畝先生は武芸なども
ほぼ縁がなかったと思われる。
狂歌を詠んで、遊びまわることも(まあお金さえあれば)
楽勝である。

江戸の武士なんというのは、ほとんどは、こんなもので
今から考えれば、、、、まあ、人にも、役目にもよろうが。

地図をもう一度。

現代の地図。

さて。この御徒町あたりの切絵図に「御先手組」と
書かれている区域がある。
これ、鬼平ファンの方であれば、お分かりになろう。
火付盗賊改の長谷川平蔵の配下は、この先手組。
盗賊改は臨時の兼務職である。
その彼らの住む組屋敷である。(池波先生の設定は
ここではなく四谷の組屋敷だが。)
彼らの普段の役目も、江戸城の警備などであるが、
その与力、同心も身分は基本的には旗本ではなく
御家人である。

さて、この切絵図に先手組は先手組と書かれているが、
御徒町とも御徒組とも地図には書かれていない。
まず「町」は町人の住むところに付けられた呼び名で
この地図では広小路沿いの灰色のところなど。赤は寺社で
それ以外は武士の屋敷。御徒士でも武士の住むところで
「町」も名前もない。だが組屋敷としての名前もない。

下谷和泉橋通(現昭和通り)の一本西。
反対向きに「中御徒町」という文字が見えると思う。
これは通りの通称が書かれている。
この通りを中心に西は、広小路に面した町屋の手前まで、
東は下谷和泉橋通あたりまで、であろうか。
このあたりが御徒士の人々が住んでいた、御徒町
いってよいようである。

ここは、当初はやはり御徒士の組屋敷であったのである。

江戸期というのは、年月が経っていくと、土地の利用
というのか、屋敷地の使い方が崩れていく。

基本、武士の土地は幕府から無償で借りているもの。
これは、彼ら御家人から旗本、大名まで皆同じである。
うわものの屋敷は自分で建てる。
建て替えてもよい。
貸し与えられたのは当初、一人200坪程度であったという。
これは、御家人の屋敷としては、普通は100坪程度で倍。
そんなこともあってか、屋敷地の一部を他の人に貸す。
家を建てて借家人を住まわせる、なんということが
どんどん行われていたのである。

この切絵図の御徒町あたりは御徒士も住んでいたが、
徒士以外の人々も、住んでいたのである。書かれて
いるのはその主人の名前も含まれている。

借地人は、基本はそこそこの身分であったようではある。
例えば、旗本、御徒士ではない他の役の御家人、坊主、
医師、絵師、能役者、楽人、さらに大名家の家来、
商人(御用達)までいたようである。(大工が住む長屋の
ようなものはなかったようである。)

なんだか、やりたい放題のようにも見えるが、これは
下谷御徒町に限らず、江戸の武士の住んでいた区域は、
大名屋敷や大身旗本屋敷は別にして、まあ、どこも
こんなものであった。

江戸期は、まあ、そんなことであった。
ここまでは、ある程度わかった。今、時代劇で描かれている
世界はさほど間違っていないかもしれぬ。

で、それが、明治になってどうなったのか。
やはり、これがあまり今まで表に出てこなかった。
明らかにされていなかった。

特に、明治の頭。
0年代、10年代、20年代、あたりまでであろうか。

江戸末から明治初頭はもちろん、日本中、激動の時期ではある。
徳川幕府瓦解と明治新政府成立、文明開化の時代へ。

明治も落ち着いてきた、中期以降は民衆、市民も含め、
皆さんもなんとなくイメージできるであろう。

しかし、明治前期は、新政府や東京府など、表の歴史は
研究されても、江戸町民~東京市民達の有様や生活は、
長くろくに研究もされてこなかった、といってもよい
のではなかろうか。
研究をされてこなかったので、学校でも教育もされていない。
誰も知らない、東京人自身にも忘れ去られてしまって
表に出てこなかった、東京の歴史。

江戸末から明治初めの御徒町は、もちろん
私も知らないし、説明もできない。
どうやって今の御徒町ができてきたのか、で、ある。

つながっているのに、歴史感としては途切れている。
南畝先生のような御徒士や、その借家・借地の様々な人々が
いた御徒町が、どのように変わっていったのか、である。

近年、幕末からこの明治初期の江戸・東京研究は
随分掘り起こされてきたといってよいだろう。

去年読んだ、須田努著「三遊亭円朝と民衆世界」

などもその例である。円朝師は江戸に生まれて幕末から
明治前期の江戸→東京で活躍した。
実は、他にもこの時期の研究はたくさん出てきている。

日本史学というのは、近世=江戸期と近代=明治以降で
研究分野と人が分けられているというのもあろう。
つまりエアポケット。
また、もっと重要なことは、明治という時代の捉え方、
ではないかと思っている。
日本近代史学者達はどうしても政府寄り、というのか、
明治を肯定的に考えるというスタンスを取ってきた
と、私は思っている。消極的に、で、あっても。
明治初期などは、政府の文明開化、富国強兵にばかり
興味があり、その激動に飲み込まれた江戸一般町民~
東京市民自身には目が向いてこなかった。
江戸の町民文化はあれだけ研究されているのに、
で、ある。

ここでいえば、幕府の下級武士、御徒士の人々や
借家・借地人なども含めて、で、ある。一体、彼らは
どうなったのか。
そして誰が御徒町に住んだのか。台東区史には
書かれてこなかった。

それで、こんな論文を見つけた。
『歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
― 下谷御徒町・仲御徒町を事例として ―」双木俊介 2014』

これである。これを捜していた。やっぱり、日本史ではない。
歴史地理学の研究である。

 


つづく

 


参考
日本建築学会大会学術講演梗概集「江戸・下谷御徒組屋敷について」
鈴木賢次 1997

歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
下谷御徒町仲御徒町を事例として ―」
双木俊介 2014