浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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御徒町のこと その5

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週をまたいでしまったが、御徒町のこと。

明治も10年をすぎている。

10年前の御徒士らの小さい武家屋敷の立ち並ぶ静かな街、
御徒町は、まったく街も人も変わってしまった。
投機対象の貸し家、長屋。
その間にも、どんどん人が入れ替わっている。
地価もあがり、プチバブル状態。
はっきりはしないが、問屋もあったかもしれぬ、物販か、飲食か、
なんらかの市民相手の商売をしている店も多い状態と思われる。

ここに御徒町にとっては、さらに大きな、上野駅開業という
出来事が起きた。
まさにもうイケイケである。

上野停車場の仮開業は明治16年(1883年)当初は上野、大宮間。
停車場ができて上野が東京の北の玄関口になり、人、物の往来が
活発になった。しかし、上野駅前、まだ道が狭く、すぐにかなりの
混雑、大八車の大渋滞を呈した。
そこで、貨物のみ上野停車場から分離し秋葉原まで延伸することに
したのである。

これは、ご存知の方もあるかもしれぬ。秋葉原駅
接して神田川につながった、船溜まりがあった。
今は、秋葉原公園になっているところ。
貨物はここまで鉄道で運び、あとは神田川の水運を
使って東京市中に運んだのである。

御徒町を縦断して佐久間町河岸まで線路を敷き、上野停車場
仮開業7年後の明治23年(1890年)「秋葉原貨物取扱所」
という名前で貨物駅として開業している。

さあ、この計画が出ると、御徒町はもうご想像の通り。

むろん、反対もあったようである。
予算的にこの時は高架もできなかった。
線路は塀で囲み、踏切は番人付きであったとのこと。
(この部分の出典はウィキ)

明治25年

明治30年

現代

ちょっと横道にそれるが、この貨物線、こんなプチ情報もある。

今は線路が増えているので幅は広くなっているが、秋葉原から
御徒町駅までは、ほぼ今のJR京浜東北・山手線の通って
いるところと同じようなのだが、上野駅寄りのほんの一部分だけ
貨物線はずれているところがあった。

明治25年地図の上野停車場のあたりを見ていただくとお分かりに
なるのだが、この貨物線は上野停車場の東側から出てきている。
つまり、今の上野駅正面口あたりから出ているのである。
ここから丸井を斜めに突っ切って、上野藪蕎麦の角あたりを
かすめ、今の御徒町駅から北へ一つ目のガードあたりで、
今の線路に合体する。こんな路線であったのである。

閑話休題
この貨物線建設は当然、仲御徒町の建て込んだ区域を
通るので、そこにあたる土地、家屋は立ち退かなければ
いけない。この家々は立ち退き手続きをしているので、
これがちょうどよい史料になっているのである。

対象の家の詳細が分かってなかなかおもしろい。

立ち退き対象の土地は、鉄道用地なので縦に長いのだが、
横は狭い。当時の、南から仲御徒町一丁目から四丁目まで、
全部で登記簿的な表現になるが、66筆。

内訳は、そこに住んでいる「居付地主」は25人。
住んでいない「不在地主」は41人。6割以上。
不在地主の多くは下谷区内,浅草区神田区などに
所在していた」。

「居付地主の半数弱,不在地主のほとんどが貸地あるいは
貸家を経営していた。このように,仲御徒町の鉄道建設による
買い上げ用地では土地売買が活発であっただけでなく,
地主による貸地や貸家の経営が展開していたことが指摘
できる」とのこと。

具体的な例を見てみよう。図面付きで示されている。
居付地主の例。明治21年1888年)時点、
仲御徒町3丁目74番というから、今の御徒町駅の北側、
当然、JR線の敷地でガード下、二木の菓子の東あたりか。
間口8間(14.5m)、奥行き25間(45.5m)の縦長の敷地。
ピッタリ200坪。

この200坪はかなり広いが、前に書いた御徒士の屋敷の広さと
一致するので区画も御徒士時代そのままの可能性は高そうである。

この敷地真ん中に地主の住む二階建ての母屋。建坪100坪弱は
あろうか、そこそこ大きい。母屋よりは少し狭いがゆったり
とした広さの庭にあたるであろうスペースもある。
これだけでも、お屋敷、まではいかないかもしれないが、
自宅としてはかなり立派なものであろう。

図面を見ると、この敷地、表通りに面して、間口3間程度の
平屋の貸家が二棟建っている。
この二軒はなんらか商売をしているかもしれない。

この母屋の人はどんな経歴でこの時なにをしていた人なのか。
お金もあったのであろうが、おそらくそれだけではない。
元武士かもしれぬが、武士に近いそこそこの身分と社会的地位の
あった人。詩歌など文人、あるいは儒学者、能役者、医者、、?。
また、貸家の住人はなにをしていたのか、知りたくなってくる
ではないか。

で、調べてみた。
この論文には実名が書かれている。地主は奥原晴湖という。

すると驚いた。いや、マジで。この方は、ちゃんと名前の
残っている人だったのである。
論文筆者の双木先生はおそらくご存知で、あえて書かれていない
と思われる。歴史地理学の研究は研究対象の特定の人物、個人
にはスポットをあてないもの、なのかもしれぬ。
これが史学や文学などであれば、別かもしれぬが。

しかし、市井の人ではない。歴史的人物なのでここに
書いてもよいだろうと私は判断した。おそらくこの方で
間違いないだろう。私は、存じ上げなかったが。

この人、江戸末から明治に作品を遺した著名日本画家である。
日本美術史上の大先生。それも女性の。晴湖はセイコと読むよう。
むろんこれは画号。ウィキにもちゃんとページがあった。

こんな方が住んでいた。ただの新興の商業地、という認識は
改めるべきか。江戸の静かな街は残っていた?。

絵師というよりはやはり画家という呼び名ががふさわしい。
女流南画家。
最盛期の門人300人、岡倉天心もその一人。すごい人である。

奥原晴湖「芦雁図」明治13年1880年)(ウィキより)
まさにこの時期。こんな作品。この時43歳。

 


もう少し、つづく

 


参考
日本建築学会大会学術講演梗概集「江戸・下谷御徒組屋敷について」
鈴木賢次 1997

歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
― 下谷御徒町・仲御徒町を事例として ―」
双木俊介 2014