浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



御徒町のこと その3

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引き続き、御徒町のこと。

徒士を含めて、様々ではあるが、そこそこ以上の身分の
人々が雑居していたといってよい、江戸期の御徒町

この御徒町が幕府瓦解となって、どうなったのか。
これが、テーマである。

それで見つけたのが、こんな論文。
『歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
― 下谷御徒町・仲御徒町を事例として ―」双木俊介 2014』

体系的に探したわけではないが、これでズバリ知りたかった
ことが少し明らかになった。

もちろん、学術論文なので私見や想像要素はほぼないのだが、
これを読んで、いろんな想像が広がってきた。
明治初期、民衆達もなかなかおもしろく、たくましい。
いや、たくましい人もいたということか。

明治0年代、10年代、20年代のこのあたりを舞台に
小説でも書いたらおもしろかろう、と。
やっぱり、あまりこの時代の庶民を描いたものは、
思い浮かばないが。

リアルタイムの明治の作家でも漱石の「猫」は明治38年発表、
鴎外の「舞姫」が明治23年樋口一葉の「たけくらべ」が
明治28年、これより前の二葉亭四迷の「浮雲」でも明治20年
(この二人は完全な口語ではなく読みずらいが。)
現代の我々が、なんとなく肌感覚で想像できるのは、明治30年
あたりからなのもそういうことであろう。
やっぱり0年代、10年代はエアポケット。

こんなことでも時代として、現代に知られていないのでは
なかろうか。

ともあれ。
ご興味があれば、この論文を直にお読みいただきたいが、
少しかいつまんで、書いてみたい。

一応また、江戸切絵図を出しておく。

現代の地図。

江戸幕府が瓦解し明治維新、慶応4年は明治元年(1868年 )。

江戸にあったすべての武家の屋敷は江戸幕府
借りていたものだったので、明治新政府に納める、という
形を取ることになった。

御徒町の御徒士の屋敷も同様。

で、幕臣はどうしたのか。

最後の将軍慶喜は上野寛永寺に謹慎から、死一等を減じられ
水戸へお預け。幕臣も含めた組織としての徳川宗家は
駿河へ転封、静岡藩という形になった。

徒士も含めて幕臣にはいくつかの選択肢があった。

ご存知のように、奥州から函館まで、陸から、海から、
新政府軍に徹底抗戦した者。
この前後で脱走した者。
帰農、帰商した者。
もう一方、徳川宗家の新当主、家達(いえさと)に
従ってこの静岡藩へ移住した者。

まず、研究では維新すぐの明治2年の和泉橋通沿いの
土地利用をみている。

この時点で御徒町の土地のステータスは三つ。
1.「上地(じょうち、あげち)」政府に納めたまま
のもの。2.「受領地」一度政府に納めた後、新政府に帰順
した大名、旧幕臣に無償で貸し与えたもの。3.「2」の
後に出た制度で1を相当の地代で貸し与えた「拝借地」。

この明治2年時点ではまだ、決まっていない「上地」状態の
土地が最も多くなている。政府もまだ、混乱中といった
ところ。

ただここでおもしろいのは、土地と建物が別々の扱いに
なっているところ。上地状態だと、空き地ばかりかというと、
そんなことはないのである。うわものは別。

これは江戸期の制度を変えていないということになろう。
前記のように御徒士の人々のほとんどは、また貸しには
なるが、土地を貸し、そこに家を建てさせていたわけである。
新政府は「郭外」(外濠の外)については、このうわものは
そのままの使用も売買、取り壊しなども可と、通知している。

山本政恒という維新前まで御徒士でここに居住していた人の
回顧録がある。

この山本さんは「徳川家臣として帰順せし者は朝臣に列せ
られ」るが、考えた末「無禄移住」(無給で静岡へついていく)
結論を出した。
そこで、家屋を売ろうとしたのだが、買い手がなく、20坪ばかりの
3年前に新築した家が20円にしかならなかった。
(私、断腸亭はざっくり1両=1円=現10万円で、20円=20両は
現代の200万と考えることにしている。)

明治1~2年、まだ買い手が付かないほど東京は混乱していた
ということである。

しかし、これが2年から3年になってくると状況が
変わってくるのである。ここが、たくましいところ。

町人層から土地「拝借」の申請が多く寄せられ、それも一人で
複数の申請、さらにその多く申請者の居住地は近所だが神田や、
浅草で御徒町の住人ではない。そしてこれらの申請は
認められているよう。

住居用あるいは、店舗用の家を建てて賃料収入を得る。
江戸期には基本武家地なので商いの店はなかったと考えられる。

武家地でありここに住んでいた者のほとんどは町人ではない。
山本さんのように御徒士で静岡へ移住した者もいた。
それで隣の町人の町、神田、浅草の者なのであろう。

江戸期からの繁華街の広小路のそばでもあり、ここはイケル
と考えた者が出てきたのである。

なんだか、小金持ちのやり手の町人(商人)といった
感じである。利に聡い、機を見るに敏。
お上への申請はかなり面倒なはずであるが、こんな人が、
もうどんどん現れ始めているのである。
ここに現代の御徒町につながる形が既に現れていると
いってよいかもしれない。
静かな武家屋敷街から繁華な商業地へ。発展解禁、か。
ただまだ、地方から人が出てきているのではなく、東京の者。

ただ、一方でこんなことも頭に置いておきたい。
昨日挙げた須田先生の「三遊亭円朝と民衆世界」でも
明らかにされているが、幕末からの江戸は治安の悪化が激しかった。
また裕福な商家などは、打ち壊しのおそれが常にあった。
いわゆる疎開のような、江戸から逃げ出す者も少なくなかった。
実際幕末は、治安の悪化と物価の高騰で、江戸の人口は
大きく減っている。

 


つづく

 


参考
日本建築学会大会学術講演梗概集「江戸・下谷御徒組屋敷について」
鈴木賢次 1997

歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
下谷御徒町仲御徒町を事例として ―」
双木俊介 2014