浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



御徒町のこと その4

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引き続き、御徒町のこと。

維新が成って、明治1年、2年、3年。
小金のある、神田、浅草の町人が前住人の御徒士が新政府に
納めた土地を運用のため有償で借り、街が変わってくる。

ただ、まだ街の情勢は不安定極まりない時期でもある。

このあたりは、上野戦争の戦場直近でもある。
広小路の上野側角の三階建ての料亭(今のヨドバシカメラあたりか)
に新政府軍は大砲を設置し、彰義隊がこもる上野の山に向けて
ぶっ放している。治安、町の様子はどんなものであったのか。
この頃、前記の円朝師などは、夜、町の見回りをする新政府薩長
兵士などを恐れ、まだまだ戊辰戦争の心の傷は癒えない日々を
送っていた。無頼の者が跋扈する「悪党の世紀」は
まだ続いてもいた。やはり人によって、様々な思いが
あった時期ではあろう。

次の大きな変化のタイミングは明治6年
ご存知であろうか、地券発行である。
これはもちろん地租改正とセット。

この間、政府はうわものと土地の所有者を一致させる方向に
若干の方針転換をしたりはしているが、まあ、そう大きな
変化はなかったよう。

ともあれ、地券発行。
江戸以来、武家地はいわば公有地であったがこれを
すべて私有地にし、課税対象にするということ。

「受領地」はそのまま持ち主に地券を発行する。
「拝借地」は相当の金額で払い下げる。
それ以外は、入札により払い下げ。

研究では、地券発行後、明治6年から11年までの
土地所有者の変化をみている。

すると、地券発行前からの継続所有者はごくわずかで、
この数年でも目まぐるしく変化していることがわかった。

今は御徒町は完全に商業地。当時不在地主で借家経営、
長屋経営、住まいのみの家も多々あったようだが、
商売をしていた家もあった。だが、その割合は研究では
明らかになっていない。
少なくとも表通り沿いでは商売をしていた家も
少なからずあったと考える。長屋には職人もいた
かもしれぬ。所有者が頻繁に変わっているというのは、
商売や事業を始めたはいいが、続かず、撤退という者も
多かったと考えてよさそうである。

これ、今と比べてどうなのであろうか。
今も、数年で店が変わることは珍しくはない。
新時代で思い付きで始め、うまくいかず、あきらめた人も
多かったのか。
ただ、すぐに次が登場するというのは、既に人気の
街になっていた、といってよろしかろう。

こうなると、もう少し具体的な話が知りたくなる。
どんな商売の店があって、どんな主人がいて、どんな風に
成功し、失敗していたのか、なんということ。研究ではほぼ
触れられていない。一般には“士族の商法”などというが、
小金のあった元武士が商売を始めた例もあったかもしれぬ。
この史料だけでは、調べようもないかもしれぬが。

そういえば、この界隈、広小路裏から昭和通りまで、
アメ横などもあって、今もかなりごちゃごちゃしている。

また、この活況は明治になって、武家地が空いただけでなく、
江戸期よりも自由に商売ができるようになった要因が他にも
あったのか。制度的にも心理的にも。これも詳細な検証が
必要かもしれぬ。

ともあれ。
一般に東京市では明治10年あたりから土地の売買が
盛んになっていったというが、御徒町は、かなり早かった。

今でいえば、投機マネーとでもいうのか。
海千山千?、儲けたい人々が入れ代わり立ち代わり、
御徒町に入り込んだ姿が想像できる。
もちろん、地価も上がっている。高騰といってもよいほど
だったようである。
ここまではひとえに、まだ広小路の隣地というロケーション。
この界隈についていえば、ある種バブルでもあろう。
明治初年からみると、たった10年ほどで既に街の住人、
有様も一変、静かな街から繁華街の道を歩み始めたのである。

明治10年、やっと「悪党の世紀」も終わり民心は
落ち着いてくる。

ここに御徒町にとってさらに大きな影響を与える
大事象が持ち上がっていた。
まさに、イケイケといってもよいかもしれぬ。

なんであろうか?。そう。ご存知、上野駅!。

東京から東北地方へ向かう鉄道の計画である。
もちろんこれはその後の東北線になる。
構想自体は、明治4年あたりからあったよう。
進み始めたのは、明治14年あたり。
当初は日本鉄道という名前で、民間鉄道の形を
取っていた。ただ、岩倉具視など華族が名を連ねる
もの。背景は政府の西南戦争などによる財政逼迫である。

基本、明治10年代あたりまでは江戸と町割りなどは
変わっていないと思われる。

そしてここからは、明治の地図も必要であろう。
出してしまおう、二枚。

これは、既に上野停車場開業後の明治25年
ちょっと肝心な部分がかすれてしまっている。

さらに五年後の明治30年。ちょっとパノラマ風の画になっているもの。

現代も。

前に書いた、春日通りがいつできたのか、という問題があったので
25年と30年できざんでみた。30年は明確に東西の春日通りはある。
25年はかすれ部分があって微妙だが、まだないように見える。
この間にできた、のか。(一応、まだ宿題にしておこう。)

さて、ここの二枚には御徒町にとってはそれ以上の大きな変化がある。

「貨物線」と入れてしまったが、これ今のJR京浜東北・山手線
なのである。ただ御徒町駅はまだない。
御徒町駅ができるのは、ずっと後の大正14年(1925年)。

この「貨物線」とはなにか。

当時の「上野停車場」ももちろん入れた。
広小路に鉄道馬車も走っている。(路面電車ではまだない。)

 

 


来週も、もう少し、つづく

 


参考
日本建築学会大会学術講演梗概集「江戸・下谷御徒組屋敷について」
鈴木賢次 1997

歴史地理学「明治前期東京における土地所有と借地・借家
― 下谷御徒町・仲御徒町を事例として ―」
双木俊介 2014