引き続き、連休、歌舞伎見物。
團菊祭の二つ目。
「三人吉三」大川端庚申塚の場。
黙阿弥先生作のあまりにも有名な作品の
あまりにも有名な幕。
黙阿弥作品、いや歌舞伎を代表する名台詞が登場する。
なん度か観ているかと思ったら、通しを国立で一度だけであった。
この芝居全体の作品論のようなことも考えてみたので、
かなり身近に感じていたようである。
やはり作品全体を観て知っていれば、この幕だけでよい
というのがある程度理解ができる。
(ただ、通しを観ているかいないかは大きな違いである。
やっぱり、通しを観なければ、納得はできなかろう。)
「三人吉三」全体の主題などとは別に、
ここに登場する、かの名台詞を聞きたいから
観る、という幕であるといってよろしかろう。
「月も朧(おぼろ)に 白魚の
篝(かがり)も霞(かす)む 春の空
冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(からす)の ただ一羽
ねぐらへ帰る 川端で
竿(さお)の雫(しずく)か 濡れ手で粟(あわ)
思いがけなく 手に入る(いる)百両
(舞台上手より呼び声)御厄払いましょう、厄落とし!
ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ」
(ウィキペディアより)
見事な七五調。
節分の夜なので、まだかなり寒いはずだが、ほのかに
暖かさが伝わってくる。
舞台の大川端庚申塚というのは両国あたりと説明されるが
実際にはどこなのかはよくわからない。
大川端は、文字通りだと大川、隅田川の畔(ほとり)
ということになるのだが、通常は隅田川の東岸、つまり
本所、深川(墨田区、江東区)側をいっていた。
中でも、両国橋あたりから、永代橋あたりまで
と理解するのが正しい思っている。
その大川端のどこかの庚申塚の前。
なぜこの幕がよいのか。
観客はこの場でなにを観たいのか、聞きたいのか。
煎じ詰めると、黙阿弥翁が構築した、
江戸の美学ということなのであろう。
現代においては特にであろう。
隅田川東岸、大川端という場所、時期は新春。
新春はむろん旧暦で今の2月。
この時期未明、盛んに行なわれていた白魚漁。
そお白魚漁師のかがり火がかすんで見える夜。
白魚も白魚漁師のかがり火も、大川端すら
今ではすべてなくなってしまった江戸の情景である。
そして、それがのせられる美しい七五調の台詞。
初演時にはあたり前ではあった風景であるが
それを最も美しく表現していた。
この正月観た「雪暮夜入谷畦道(ゆきのゆうべいりやのあぜみち)」
直侍の蕎麦やの場
なども同じ黙阿弥作品だが、同様である。
これは江戸郊外、入谷田圃の夜、雪が降っている蕎麦や。
明治に入っての作品だが、ここで黙阿弥は
失われていく江戸の粋、江戸の美学を描きたかった。
実は「三人吉三」は幕末安政の初演時にはたいした評判にもならず、
しばらく演じられずにいた。再演されたのは、明治。
初演から30年あまりたってからという。
江戸の美や粋が失われた、あるいは失われつつあったが故に、
観客にうけたということであったのであるまいか。
今回の配役はお嬢吉三が菊之助、お坊吉三が海老蔵、和尚吉三は松緑。
團菊祭で市川團十郎家と尾上菊五郎家なのだが
若い三人という顔ぶれ。
基本この芝居は型や台詞がしっかりしているので
その通り過不足なく演じるということが必要なのであろう。
(逆いえば、名のある三人がその通り演じらればそれなりに
観られるというものかもしれない。)
「月も朧に・・」の名台詞を発するお嬢吉三の菊之助はもちろん、
海老蔵、松緑とも流石に十二分に演じられていた
のであろう。
つづく
三代目豊国 安政7年(1860ヤNチjヘ]フ?ホsム?ヘ?
お坊吉三 初代河原崎権十郎
お嬢吉三 四代目市川小団次
和尚吉三 三代目岩井粂三
つづく