今日は、最近ちょっと考えたこと。
鈴木勇貴という方の(どういう方だか私は実はよく知らないのだが。)
「日本は実はラテン的国家だった」
というコラムを読んで考えたことを書いてみたい。
日本人はラテン人か?。むろん否。
人種とすれば、日本人は鼻が低く足も短く、ラテン人ではなく
モンゴロイドに含まれる。
ラテン人は、イタリア、フランス、スペイン、南米人などのイメージ。
明るく、陽気。
最近では、ヨーロッパでも経済的に行き詰っているのもこれらの国々が
中心か。
この方の文章は、ざっくりそんな文脈で書かれている。
反論点もたくさんあるのだが、意外に膝を打つところもあって
おもしろかった。
日本には、奇祭といわれるヘンなお祭がたくさんある。
なんトンもある山車を猛スピードで街中を引き回す、お祭だったり、
間違いなくある確率で死者が出ることを承知で、急な崖から落とす
太い丸太に乗る、お祭。寒中の夜中、ふんどし一丁で、雪の中を
走り回ったり、水に入ったり、お参りをしたり、、。まあ、奇祭には
枚挙にいとまがない。
年に一回のカーニバルのために、一年を暮らしたりする、
ブラジルの人々、全力でトマトを投げ合ったり、闘牛と一緒に
全速力で走ったり、、、。
私の住む台東区浅草界隈なども神社(鳥越神社)のカレンダーは
祭のある6月から始まっている。
閉塞した幕末に流行したお伊勢参り、ええじゃないか、
なども、ラテン的な例として挙げている。
食い物も然りで、イタリア料理、フランス料理、スペイン料理、
等々、ラテン系の食い物はうまく、彼らは食べることに熱心であり、
これが日本人も同じ、だと。
もっというと、どちらも食べることを文化として捉えている。
このラテン系に対比されるのは、アングロサクソン系、
つまり、米英。
違いはなにかというと、片やプロテスタントで
片やカトリックであると。
同じキリスト教であるがプロテスタントは厳格な一神教で
カトリックはもっとゆるい多様性を受け入れる要素がある
と鈴木氏はいっている。(これには異論は多数あろう。)
アングロサクソンは質素倹約、ラテンは消費は美徳。
まあ、こういう言い方をすればうなづける。
で、結局、アングロサクソンは経済的にも軍事的にも政治的にも成功し、
ラテン(ここには日本も含まれるという文脈で)は成功していない。
しかし、食も含めて文化的にはラテンの方が圧倒的に優れている、と。
日本はもともとラテン民族的だったのだが、この一世紀
(戦後ということか?、大正頃から?)
「アメリカ型のビジネス・経済を取り入れたという点で、
ラテン的国家からハイブリッド」国家になった、と。
で、この方は最終的には日本人は元々はラテン的民族で
行き詰った時には(現代)そうした原点に返ってみよう、
というようなことをいっている。
まあ、そうだよね。
この手の話、私自身、日々考えているようなことでもあったので
大いに興味を惹かれ、なかなか結論の出る話でもないが、
もう一度考えてみたのであった。
そこで、以下、私が考えたことを書いてみたいと思う。
ラテンvsアングロサクソンというのがこの方が出した対立項であるが、
私は、アングロサクソン(ゲルマンも加えたい)vsそれ以外、という
対立項にしたいと思うのである。
食い物がうまいのは、ラテンというのは反対しないが
もう一つの大事な巨頭を忘れている。
中華、で、ある。
この人達がラテン的というのはまあ、あてはまらなかろう。
(中国人は中国人的、以外、形容詞がないかもしれない。
大雑把な言い方だが。)
また、中国人は食い物に興味ないという人もいなかろうし、
中国料理が立派な食文化であることに反対する人もまずいないだろう。
あるいは、韓国・朝鮮料理だってうまいじゃないか。
しかし、韓国朝鮮人もあまりラテンぽくは、なさそうである。
(よくわからぬが、彼ら、ノーテンキではないだろう。)
結局、アングロサクソン・ゲルマン(以下長いのでアングロサクソンで
代表させる)が他のすべての民族と比べて異質なのではなかろうか、
というのが、まずは私の仮説である。
ある程度、社会と文化が発達すれば、食い物はうまくなる。
そういうことなのではなかろうか。(もちろん凸凹はあろうが。)
(で、アングロサクソンはそもそも食べることに
興味がなかった。なぜかはここでは置いておくとして。)
食い物以外のことも、アングロサクソンだけが他の民族とは別である
との見地に立つと考えやすいように思うのである。
では、見方を変えて、アングロサクソンって、どんな人達か
を考えてみたい。
アングロサクソンを定義する要件としてまず、私はロジカルである、
論理的思考が好き、ということを挙げたい。
断っておくが、これは、彼らが頭がよいということではない。
“ロジカルが好き”という文化を持っているということである。
さて。
ホフステードという人の名前を聞いたことがある方は
おられようか。
全世界のIBMの社員を対象に(ざっくりいうと)国別の行動パターンを統計的に調査し
累計化した「多文化世界」
という研究書が特に有名で、経営学の方面でも今でも影響を与えている人、
といってよいのであろう。
(ビジネスマン諸氏は、エッセンスは会社の研修などで学ばれた方も
あるかもしれない。かくいう私も恥ずかしながらその口である。))
ただ、私も学生時代、民俗学、文化人類学を学んだ者の端くれとして、
この人のアプローチは随分と新鮮であった。
(むろん、その時、知ったのだが。)
この種の議論、一言でいうと、『国民性』というようなことになるのだと思う。
日本人ってこんな人、イギリス人ってこんな人、というような
ざっくりしたこと。
ただ『国民性』なんというのは、世間話としてはよいのだが、
学問として、こんなざっくりしたコンセプトはあまり歓迎されない
というのが、私の学生時代、これらの学問に関わる人々の
一般的な見方であったように思われる。
(しかし、こういう研究は、例外的かと思うが、皆無ではなく
日本を扱ったものでは、「菊と刀」(ルースベネディクト)は
古典であろうし、「タテ社会の研究」(中根千枝)などある。)
当時ホフステード先生はIBMの社員で、世界中で同じ質問項目で
(同じ仕事をしている人へ)統計的に有意な数の調査をするというもので、
こんなことはIBMくらいでしかできないことだったかもしれない。
長くなるので、明日につづけよう。