浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)
断腸亭料理日記本店
 

「梅棹忠夫の京都案内」


梅棹忠夫、と、いう人をご存知であろうか。


京都大学名誉教授、元京都大学教授。
1920年大正9年)京都生まれ。元々は、生態学
京大霊長類研究所を作った、日本人類学の祖ともいえる、
今西欽司同じく、京大名誉教授の門下。
国立民族学博物館初代館長。
まあ、最終的には、民族学文化人類学の先生、で、ある。


私が、学生時代、民俗学文化人類学を学んでいた頃には
その民博(ミンパク)の館長であったか。


この人が書いた梅棹忠夫の京都案内 (角川ソフィア文庫)という本を読んでいる。


梅棹先生のことはむろん知っていたのだが、
こんなものを書かれていたのは知らなかった。
書かれたのは1950年代からのものもあり、
年代的には、随分と古い。


なんでこんな本を読んでいるのかというと、
一つは、例の「花街」を書かれた加藤先生
加藤政洋氏)の「京の花街ものがたり」(角川選書
(これはまた別途、触れてみたい)を読んでいたら、
梅棹先生のこの著作の引用があり、読んでみたくなった
のである。


どんな引用なのかというと、やはり、京都の芸妓・舞妓について、
梅棹先生が語っている言葉。


「京都の芸妓・舞妓というものは、もともとは京都の
ブルジョアたちが、金に糸目をつけずに、念入りに
そだてあげた、きわめて特殊な愛玩物(あいがんぶつ)である。」


梅棹先生は京都の生まれ育ちで、京大の文化人類学の先生。
そんな人の京都の芸舞妓への論評として、
ははー、そういうものか、と、考えさせるもの、
で、あった。


そしてもう一つは、私は、ここ数年京都へ仕事で行く機会が
なん回かあり、先斗町やら、祇園の食い物ややらを覗いて
みるようになった。
東京に育ち、当然、東京をホームグラウンドと思い、
このような日記を書いているわけだが、
京都とはいったいどんなところなのか、もっと少し知りたい、
と、思うようになっていた。


それで、私の学んだ学問の先達であり、
京都生まれの先生が書かれた、京都案内、
これは読まねば、と、考えたのである。


これ、読んでみると、やっぱり、
なかなかおもしろい。


京都の人と、東京の人間と、私は、前から同じような
ところがあるのでは、と、考えていたところも
あった。
(京都の人にとっては、そんな東京者と一緒にしてほしくない、
と、怒る、であろうが。)


最初から、梅棹先生は書かれている。
京都人には、「中華思想」のような、ものがある、と。


まあ、京都が一番偉い、と、京都人は思っているということ。
東京人の私は、ちょっと別の言い方になるが、
首都に生まれ育って、教育を受けたものとしての
プライドのようなものがある、と、いうようなこと。
(江戸人であれば、将軍様お膝元だから(恥ずかしいことはできない)、
という言葉があったが、同じようなことであろう。)


これは、京都人も東京人も、普通は、他郷の人には、
腹の中で思っていても、面と向かっては、絶対に言わない。


これもある程度共通しているだろう。


あるいは、田舎者、おのぼりさん、といったような
言葉をどしどし使って、京都人は違うんだ、と、
むろん感情論ではなく、ロジカルに書かれている。


私も、読んでいて、なにか、胸のすくような、
思いがしたのである。


東京でも、よく、「東京って、地方の人が集まってきた、
田舎者の街でしょ」と、言う人がいたりすると、
私などは、冗談ではない、あのね!、、、と、
言いかけて、いや、そこまでいわず、呑み込み、
「まあ、そうだよね」と、いうことも少なくない。


いつからであろうか。
「田舎者」「イナカッペ」「おのぼりさん」「田吾作」(?)
そんな言葉を使ってはいけなくなったのは。
圓生師匠の昔のテープなどを聞いていると、
この種の言葉は、枕などにも、よく出てくる、のである。)


別段私は、いや、梅棹先生も、差別主義者ではない。
梅棹先生は、高名な文化人類学者で、文化というもの
がなんであるかは、むろんのこと、十分に理解されている。
あるいは、私は、地方の時代、大いに結構、と、思う。


とすると、地方から出てきた人も、そこにくる、
あるいは住むのであれば、江戸・東京の文化、
京の文化をきちんと理解すべきである、ということなのである。
(東京と、京都とはむろんその文化の厚みは比較にならなかろう。
しかし、東京にも江戸から続く、固有の文化は有形無形を含め、
ちゃんとある、と、私は思っているし、
それをここに書いているつもり、で、ある。)


また、こんなことも書かれている。


「京都では観光客のむらがる場所と、市民がよくいくところとが、
ひどくくいちがっているかもしれない。」
そうである、私も浅草に住んでいるが、
雷門の仲見世はもうなん年も歩いていない。


順不同だが、祇園についてこんなことも書かれている。


「京の情緒といえばすぐ祇園をいう。京のうたといえば
祇園小唄(こうた)』だ。円山(まるやま)の篝火(かがりび)で、
芸妓はんで、だらり帯である。ほんとうのところは、
京都の市民に祇園であそべるひとがなんにんあろう。
・・・しょせん庶民には縁のないしろものだ。」


なるほど、そうなのか。


または、京都にたくさんある寺について書かれたところに、
こんな文章があった。


「京都には、まったく寺がたくさんある。寺と舞妓は京都の二大
象徴である。寺のまえに舞妓をたたせると京都の絵になる。
どちらもなにも生産しない。」


このコメントも京都の人から聞くと、なにか含蓄がある。


また、京都の人は、今でも京都を都であると、
考えていると、いわれている。
梅棹先生は、こんなこともいっている。


首都を戻せ、とはいわない。
(政治はいらない。)天皇を京都に戻せ、と。


これもおもしろい。


実際のところ、明治初年に天皇が京から、江戸へ
行幸され、それ以来、旧江戸城に住まわれているが、
遷都、という言葉は、この時も使われておらず、今でも、
京都に御所は厳然として存在する。


首都機能移転という話が少し前にあったが、
天皇ご一家、皇室、だけを京都にお戻しする、というのも、
一案、ではあろう。
昨年、天皇の政治利用なんということも、問題になったが、
そういう心配もなくなるかもしれない。


また、あそこは、皇居でもあるが、江戸(東京)人にとっては、
江戸城跡、なのである。


この件の周辺だが、ちょっと、おもしろいことがある。
昭和天皇の即位の式(大嘗祭)までは明治以降も
京都で行なわれていたこと。これは皆さんご存知であったろうか。


これを、梅棹先生も、京都が都である、という論拠にも
しておられた。
しかし、その後、昭和天皇の大葬の礼、今上天皇
即位の式は、ご存知の通り東京で行なわれ、まあ、ほとんど
京都が本拠である、という根拠はなくなったのかも知れぬ。


こんなのもあった。
京都、という地名は、本当はヘンである、と。
京という字には、北京、南京などというように、それ自体で、
都、と、いう意味がある。従って、京都、は、都、都、と、
同じ意味の字を重ねている、のである。


ほー、なるほど、そういわれればそうだ。
今まで、気がついてもなかった。


などなど。


バラバラと、引用をしてしまった。



随分前の著作だが「梅棹忠夫の京都案内」、おもしろい。