先日、かつ丼のことから、
一体かつ丼は、いつ頃できたのか、考えてみたい
と、書いた。
これには、以前に、まったくの推論でで
考えてみたことがあった。
今回、推論、ではなく、実地に調べてみよう、
と、思い立ったのである。
なにかというと、明治からの新聞、で、ある。
私は専門ではないが、史学などの調査研究法では、
近代であれば新聞というのはよく使う手。
そこで、明治、大正、昭和、戦前までで
丼ものを中心に、うなぎ、天ぷら、とんかつ、かつ丼などが
登場する記事を探してみた、のである。
あたったのは、主として読売新聞(サブ的に朝日新聞)。
現代まで続いている新聞で最古のものは、
読売、である。
読売は明治7年(1879年)創刊。
その翌8年には天婦羅の記事が出てくる。
明治浅い頃の新聞というのを初めて読んだのだが
実に、これ、おもしろい。
この頃は、まだ日刊ではなく、隔日刊と書いてある。
そして、官報のようなお国の通達、告示のようなものが
ページの頭にある。
そうそう、最初から余談で恐縮だが、
聞いてはいたことが、この頃は、東京は、
トウキョウ、ではなく、トウケイ、と
カナが振ってある。
これに対して、京都は、サイキョウ、
つまり西の京。
トウケイが、いつ頃、今のトウキョウに
なったのか、これはよくわからぬが、
記事では、明治20年近くまで、トウケイの
カナ表記がついていた。
一般には、すぐにトウキョウと、いうように
なったともいうが。
食い物のことであった。
こんな新聞に出てくる、食い物はどんな記事か。
お分かりになる方はおられようか。
主婦向けの料理の記事?
いや。それはもっと後のこと。
なにかといえば、そう。
食い逃げ。
無銭飲食、で、ある。
そんなものがニュースになる、というのも
まず、おもしろい。
そもそも、現代であれば、食い逃げなど
あまりなかろうし、あっても記事には
とてもなるまい。
最初に見つけたのは、明治8年4月26日月曜日。
浅草橋場に住む某(なにがし・・・新聞記事なので実名で出ている)と
本所表町の某が、新右衛門町(日本橋)の立喰いの天婦羅やで
三百文なにがし食べ、逃げようとしたがすぐに召し取られた、
という。主犯(言いだしっぺ)の方が、懲役五十日、もう一人は
四十日、という。
食い逃げがこの程度の罪科、懲役というのも、おもしろい。
江戸の頃のものを踏襲しているのかもしれない。
これは、立喰いの天婦羅で、天丼、というのは、
まだ出てこない。
が、その2年後、明治10年には、もう丼が、出てきた。
最初はなにか、鰻。
表記としては、鰻飯、うなぎめし。
あるいは、鰻丼、うなぎどんぶり。
ただし、まだ、現代の、間を詰めて、ウナドン、
という表記は出てきていない。
鰻飯だが、記事は食い逃げ、窃盗。
内容は、最初の立喰い天婦羅の
ただの食い逃げのようなものではなく、
ちょいと、手口がおもしろいもの、
あるいは、とても大食いのもの。
つまり読んでおもしろいものを、書いているようである。
例えば、こんな記事。
深川森下に住む、某。
こ奴『遊び好きの稼ぎ嫌ひ』で、毎日ぶらぶらと遊んでばかりで
町内では糸瓜(へちま)野郎といわれ、誰も名前を呼ぶもののない、
名代の男。(おもしろいので、記事をそのまま
全部書き出したいのだが、著作権上やめておく。)
糸瓜野郎もいいし、『遊び好きの稼ぎ嫌ひ』という言い方が
傑作、ではないか。
あまりにおもしろいので内儀(かみ)さんに、読んで聞かせたら、
『遊び好き』はいいけど、『稼ぎ嫌ひ』は困るわよね、、と。
(そりゃそうだ。だが、誰だって、仕事などしなくてよければ、
したくはなかろうが。)
こ奴が、下谷中徒(なかおかち)町の鰻や某の前をうろうろして
いた。するとこの鰻やに、鰻の丼二つと中皿一つの注文が
近所の家から入り、店の者が届けに行く。
この後をつけていった『稼ぎ嫌い』の糸瓜野郎、
家を覚えて、二時間後、再びその出前先の家へくる。
鰻やの者だが、と騙(かた)り、お代二十銭と丼をもらって
帰った、という。
そしてその後『稼ぎ嫌い』の糸瓜野郎、場所は神田の秋葉のはら、
丼を持ってうろうろ、近くにあった材木置き場に
丼を隠そうとしているところにちょうど巡査に認められ、
あえなく、ご用。
記事は、とても油断がなりません、と、〆ている。
(〜そりゃぁ、油断がならねえよな。)
少し考えたな、という感じ。
だが、あいた丼だけを持って、うろうろしていれば、
それは明らかに怪しい。ヘンな奴、で、ある。
とっとと、捨ててしまえばよかったのに。
丼も、売るつもりか、なにかしようと思ったのかもしれぬ。
あるいは、こんな奴。
爺さんの大喰い。
爺さんといっても、五十すぎ。
(当時はやはり五十すぎは爺さんか。)
こ奴は、名代の大喰いで金がない。
ある日の、新富町の新富座(当時一流の歌舞伎の劇場)。
内儀さんに、芝居を観てくるといって出て、
新富町の引手茶屋某へあがる。
(吉原の場合が引手茶屋で、芝居見物の場合、芝居茶屋という
言い方の方が普通かもしれぬ。現代では相撲の茶屋に残っているが
芝居の入場券に飲み食いをつけて、世話を焼いてくれるところ、
である。)
そこへあがった爺さん、生玉子十六、酒八合を呑んで、
鰻のどんぶり四つを食べ、お代は、といえば、
ない!、と居直った。
さすがに茶屋は巡査に突き出し、お内儀さんが呼ばれ、
いつもこんなことで、申し訳ないと、泣きながら謝った、
という。
記事は今度は、年寄りの大喰いは別して毒だよ、と〆ている。
(いや、そういう問題じゃないだろう〜。)
落語ファンの方なら、居残り佐平次、を、
思い出されるかもしれぬ。
こ奴は、いわば確信犯。
食い逃げ、無銭飲食と、一言でいうが、
いろんな奴がいたのである。
長くなった。
続きはまた、来週。