浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き 9月 その8

9月17日(土)



『講座』9月、人形町の続き。



昨日は、歌舞伎のことと、明暦の頃まで40年だけあった、
元吉原のこと。









元吉原、と、今書いたが、一般に、この人形町の頃の
吉原を、元吉原、浅草田圃へ移ってからを、新吉原、
と、いう。


移ったのだから、名前も変えればよいようにも
思うのだが、町ごと移動した場合、一般の町でも
同じ名前を名乗ったり、新や元が付いたりする例は
少なくない。


私の住む元浅草のそばに、今もある鳥越という
町名。これは江戸の頃、今戸の方に移っており、
移転前のところは元鳥越、今戸側は新鳥越といった。
これらと同じようなことではあるまいか。


さて、その元吉原の区域であるが、
江戸の地図に書き入れたもの。


この地図では、東側が浜町掘、南の縁に、
竈(へっつい)河岸という入り掘があるが、
遊郭があったころは、この堀が、北、西と、四方を
囲んでいた。そして、北側の入口に大門があり、
南の行き止まりを水道尻と呼んだ。
新吉原でも南の行き止まりは、同じように、
水道尻と呼んでいた。


大門から入った真ん中の通りは、今の
人形町交差点から、東へ一つ目の交差点。


今は、あまり使われなくなっているかもしれぬが、
最近までこの通りは、大門通り、と、呼ばれていた
ようである。


北側の端は明確には、わからない。


江戸の地図では、長谷川町と新和泉町の間。
ちょうど、三光新道、三光稲荷、とあるところ、か。
今も、三光新道も、お稲荷さんもある、
細い路地、で、ある。堀があったはずであるから、
ひょっとすると、区画が変わっているやもしれぬ。


余談だが、この三光新道、落語「百川」では
常磐津の師匠と、町医者、さらに「天災」では
心学の先生が住んでいたことになっている。


こんな話をこの三光新道で、皆さんにする。


焼け残った人形町、で、ある。
この新道も、常磐津の師匠やらが住んでいそうな
風情があったように思うが、今は、三光稲荷だけが、
そんな縁(よすが)を残している。


さてさて。


この界隈だと、もう一つ。
人形町交差点近くの、玄冶店。


玄冶店といえば、歌舞伎ファンにはお馴染み、
「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」、
お富与三郎、源氏店の場。(実名は玄冶店だが、
歌舞伎では源氏店、で、ある。)



与三郎:え、御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ、


    いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ。


お 富:そういうお前は。


与三郎:与三郎だ。


お 富:えぇっ。


与三郎:おぬしぁ、おれを見忘れたか。


お 富:えええ。


与三郎:しがねぇ恋の情けが仇(あだ)


  命の綱の切れたのを


  どう取り留めてか 木更津から・・



声に出して読みたい名台詞、で、ある。



さらに。


ご存知、春日八郎の『お富さん』も、
ここから始まっている。



粋な黒塀 見越しの松に


仇な姿の 洗い髪


死んだ筈だよ お富さん


生きていたとは お釈迦さまでも


知らぬ仏の お富さん


エーサオー 玄治店



これである。


これならば、歌舞伎を知らない人でも
聞いたことはあるかもしれない。


玄冶店という名前の由来は、江戸初期、


岡本玄冶という御典医の屋敷があったから
ということである。


粋な黒塀、見越しの松、のある、妾宅があった、この界隈。
これはいつ頃の話か。
「与話情浮名横櫛」の初演は嘉永の頃で、
奇しくも、ペリー来航と同じ年、で、ある。


昨日書いたように、歌舞伎芝居は数年前の天保の頃、
既に浅草へ移転した後である。
この界隈は、芝居なき後、どんな街になったのか。


先の落語に登場する三光新道も然り、かもしれぬが、
ちょいと、乙な街、であったのかもしれぬ。


このあたりから、芸者さんのいた花街、人形町
入っていく、、、のだが、その前に、玄冶店といえば、
もう一つだけ、忘れてはいけないものがある。


それは、伝説の寄席!?、人形町末広。


人形町交差点に近い歩道に、玄冶店の碑があるが、
その斜め前の、ビルの前。
歩道脇のコンクリートに石のプレートが埋め込まれている。


人形町末広は、1867年(慶応3年)〜1968年(昭和43年)。
この街が戦災で焼け残ったこともあり、戦後も人形町末広は
その建物は古い寄席の形のまま。
当時でももう珍しい寄席になっていた。


立川談志家元は若かりし頃、ここを愛し、
客の入りのよい上野鈴本よりも、ここに出ることを
優先したと語っている。


そのビルの並びに、うぶけや、という刃物屋さんがあるのだが、
残っている写真を見ると、間口は、同じくらい、
五間もない、四間程度、で、あろうか。
造りは立派そうだが小ぢんまりとした寄席である。


ちなみに、うぶけや。
創業は1783年天明3年)で、大阪で開業し、
幕末頃現在地の近くに江戸店を開業という。
明治初年にこの場所に移って現在に至る。
この界隈では、数少なくなった関東大震災後に建てられた
日本建築の名残り、で、ある。
屋号のうぶけやとは「うぶ毛も剃れる(かみそり・包丁)
抜ける(毛抜き)切れる(はさみ)」というところから
名付けられたものという。
花街のお姐さんにも愛用された、毛抜き。
ちょいと、色っぽい。



大分に長くなってしまった。


花柳界にたどり着きたかったが、
足らなかった。



明日こそは、、。






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是非!

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