浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



御徒町中華珍萬・ソース焼きそば

4517号

3月1日(木)第一食

さて。
焼きそば、それもソース焼きそばが食いたくなった。

ソース焼きそばというのはうまいもんである。

焼きそばパンでもよい。
カップ焼きそばでもよい。

もちろん、自分で作ってもよい。
作るとなると、おそらく、チルドのマルちゃんの
焼きそばになろう。
まあ、いつもの。

これはおもしろくない。

外で食べよう。

どこか?。

御徒町の中華[珍萬]。

中華料理店にはソース焼きそばはないところも
少なくないだろう。中国料理ではないので。
珍しくあったので、憶えていたのである。

今日は、そこそこ暖かい。
最高気温は16.4℃(13時42分)。
ただ、あまり天気はよくない。
雨も降りそう。

降る前に自転車で出る。

15時すぎ、到着。

ウイークデーのこのくらいの時刻であれば
楽に座れる。

カウンターの奥に掛けて、今日はビールを呑もうか。
ソース焼きそばには、やはりビールであろう。
それから餃子。

ビールがきて、一杯。

ソース焼きそばもきた。

見た目にも濃そう。

紅生姜が添えられ、キャベツ、にんじん、もやし、
豚肉。中華料理やらしいのはきくらげ。

食べると、ちょっと甘めで、見た通り濃い。

なかなか、うまいソース焼きそば

餃子もきた。

ここは、餃子もうまい。

看板にも書かれているが、皮も手作り。
しっかりしている。

酢じょうゆに、胡椒をたっぷり。

餃子もうまい。

さて。

ソース焼きそばである。
そもそも、こやつ、なに者なのであろうか。

今、ソース焼きそばは、明治の終わり頃から
大正の頃、浅草で生まれた、といわれている。
おそらくこれは概ねそんなことであろうと、私も
考えている。今はほぼなくなりつつあるが、ソース
焼きそば専門の老舗が最近まで浅草にはなん軒かあった。

先日[ぽん多本家]でも書いたが、当時洋食がブームになっていた。
洋食やのポークカツレツがとんかつとして独立したのもこの頃。
洋食というのか、洋食味というのか、洋食を代表
するものとして、ソースも人気になり一般化した。
簡易にかつ、安く、洋食っぽいものになる魔法の液体?!。
それでこの頃生まれ、屋台などでも売られ、池波先生も
好きだった、溶いた小麦粉を焼いてソース味にした、
お好み焼きの前身、どんどん焼きソース焼きそば
同時代の生まれ。中華麺は使うが、中華料理店ではなく、
やはり屋台のようなところで、ソースで炒めたものとして、
誕生したのではなかろうか。

ではなぜ、浅草であったのか。

これには、塩崎省吾という方が

「ソース焼きそばの謎」という書籍で興味深い説を
展開している。

これを細かく紹介すると(※)、長くなるのでやめるが、
結論から言うと、ちょっと的が外れていると考える。

当時、東京に限らず、大阪でも、さらに全国で洋食とともに
ソースはブームであった。
それで、もしかすると同時多発的に各地で、ソース焼きそば
生まれていた可能性は高いのではなかろうか。

そして、当時、浅草は、浅草オペラをはじめ、東京一の盛り場、
エンターテインメントの街であった。東京一は日本一である。
それも、ハイソではなく庶民の。
そんなところだから、当時最先端、人気のソースを使った、
食い物、それも安い、ソース焼きそばが影響力のある浅草で(も)
生まれ、人気になり日本全国に、広まった。
こんなことなのでは、なかろうか。

ただ、この塩崎氏の目の付け所はちょっとおもしろい。
この頃、国内製粉の小麦粉が一般化していることを
掘り起こしている点。これをヒントに、少し思い付いたこと。
今は、ほぼ言わなくなったが、以前、小麦粉のことを
メリケン粉といっていた。あるいは、うどん粉という
言葉もあった。
この違い、私は以前から不思議であった。
どちらも小麦粉でいいじゃないか。なぜ、メリケン粉
なのか、と。

幕末から、ご存知のように欧米各国に対し、関税自主権がなく、
小麦粉にも関税がかからず、明治期アメリカから小麦粉が、
おそらく安く入っていた。これがメリケン粉
これに対して、むろん江戸以前から小麦は栽培され小麦粉も
あった。明治期にも、国内栽培、国内製粉の小麦粉はあって
これをうどん粉といって区別していた。
製粉技術の問題のようだが、米国産は色が国産に比べると
驚くほど白く、明確に違って見えたよう。

 

台東区上野3-28-10
03-3831-8801

 

(※)塩崎氏の主張の概要は以下のよう。
この頃外国産小麦粉に関税を掛けられるようになり、国内製粉
の小麦粉が一般化していた。日清製粉の製粉工場のあった群馬の
館林から小麦粉は東武鉄道で当時の吾妻橋駅まで運ばれた。
(この頃、東武は貨物輸送もしていた。)
それで、浅草でソース焼きそばが生まれた、と。だが、
これは主要因ではなかろう。まあ、当時の社会背景としては
頷ける。だが、で、あるならば、小麦粉を使うものであれば
別段ソース焼きそばでなくとも、なんでもよいわけである。
実際、ラーメンは当時支那そばという名前で、やはり浅草から
人気になって広まっている。
食い物の発祥、特に庶民のものは、因果関係がはっきりした
理由はそうそうないと考えた方がよい。
また、ソース焼きそばのポイントは麺ではなくソースである。
当時の食の流行と、浅草という街がどんな街であったかが
ポイントであると、考える。 

 

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