浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



日本橋楓川界隈のこと 日本橋・そば・藪伊豆総本店

4490号

1月24日(水)第一食

さて、今日は買い物があって、珍しく日本橋
で、ある。

なにを食べようか考えて、表題[藪伊豆]へ
行ってみることにした。
ここは初めて。

高島屋の裏から昭和通りを渡って、一本裏の首都高沿い。
サラリーマン時代はたまにはくる界隈であったが
このところはまず縁がない。

そんなわけでこのあたり、私自身あまり馴染が
ないのだが、ちょいと、昔のことを調べてみよう。

まず現代の地図

日本橋から、高島屋などがある中央通りがあって昭和通り
あり、さらに、首都高が走っている。

例によって、江戸の地図。

これは、日本橋南の切絵図。

このあたり碁盤の目なのだが、右に20度ほど傾いている。
この傾きは、やはり隅田川に沿っていると思われる。

今の、首都高は地面より下を走っているが、これは以前は
楓(かえで)川という川(堀)であった。埋め立てられた、
いや、埋め立てられていない、水を抜かれた、のは戦後。
北は日本橋川から、南、京橋川・八丁堀を結んでいた。
ただこの楓川という名前、江戸の頃からかと思うと、
明治になってからのよう。
では江戸期にはなんと呼ばれていたのか。
はっきりと今、わからない。もしかすると名前はなかったか。
河岸(かし)は材木河岸という町名であったので材木河岸。
または対岸の地域名が八丁堀なので八丁堀西河岸あたりで
あったか。

さて。
神田、日本橋、京橋、銀座といった地域は、江戸開府
当時からのいわゆる江戸“古町(ふるまち・こちょう)”で
最初から町人の住む町として開かれた。

開府以前の日本橋から京橋、銀座までは、いわゆる
江戸前島といわれ、日比谷あたりまでは入海であったが
その前の長い半島状の砂洲であった。
これを整地し、さらに、その後、向こう側を埋め立てた。
これが土地として八丁堀と呼ばれていたところ。
この地図の右側。そう、ご存知江戸町奉行所の与力・同心が
住んでいた組屋敷地。その間の堀が、後の楓川ということになる。

江戸開府の頃はここが海岸線であったわけで、江戸城をはじめ
建築の材木をここに揚げたので、本材木町というよう。

また地図に槫正(くみまさ)町という名前が見えると思う。
槫正というのは、屋根に使う板のことのようでこの槫正の
置き場であったのが由来とのこと。

今の中央通り沿いは、日本橋から町名は通(とおり)一丁目~
三丁目まであり、中橋となる。もちろん、江戸初期から大店のある
江戸随一の繁華街。中橋よりは若干北へずれているようだが、
今の東京駅前からの八重洲通りにほぼ重なる。ちなみに、
ここまでが旧日本橋区で中橋から旧京橋区になる。

地図に書き入れたが、古くはここが入堀でそこに掛かった橋が
中橋と呼ばれていた。地図にも埋立地とある。
中橋の町名は昭和初期まで残っていた。

江戸初期、江戸で最初の歌舞伎小屋中村座猿若座)が櫓を
上げたのが中橋という。今、銀座北端の京橋跡に江戸歌舞伎
発祥の地の立派な石碑がある。
京橋の西に中之橋という橋があったからか、この京橋あたりが
中橋ともいう人もいるようだが、この碑は便宜的に(建てる
場所があったので?)京橋跡に建てたのではなかろうか。
江戸で中橋というと日本橋寄りのここと考えるのが自然であろう。

また、中橋といえば、江戸後期になるが、落語「今戸の狐」に
実名で登場する二代目三笑亭可楽師を思い出す。当時大人気で
知られたこの人は中橋に住んでいることから中橋の師匠と
呼ばれていた。この中橋もここのことか。

もう一つ、この地図にちょっとおもしろいものが書かれて
いるので書いてみたい。
「三四番屋(さんしのばんや)」と書き入れたが、これが江戸府内に
いくつかあった大番屋の一つのよう。大番屋というのは、町奉行所の
施設。番屋というのが、各町に一つ程度あったのだが、今の
交番のような存在。下手人(容疑者)が捕まると、番屋へ、
そして、さらに大番屋へ連行され、留置。大番屋には留置施設もあり、
ここへ担当与力が出向き、吟味した。
ここにあったのは、八丁堀に住む与力同心に便利であったから
かもしれぬ。

さて、もう一つ。
上の地図の川向こう、東側。八丁堀。
書き入れたが伊勢桑名藩松平家上屋敷
この桑名藩松平家はいくつかある松平家のうち、久松松平家
先日、春日の伝通院のところで書いたが、家康の実母於大の方
家康の父、松平広忠と離縁後再婚した家(久松家)。

そして、伊勢桑名藩というと、もう一つ、なにか思い出され
ないか。
幕末。
そう、会津藩とともに京都で、勤王の志士と戦った。
当時の藩主は松平定敬京都所司代。実兄は会津藩主の松平
容保で、京都守護職新選組を預かっていた藩。
(二人とも養子で会津、桑名へ入っている。)

こんなところに、桑名藩の藩邸、それも上屋敷があったのか。

家格は、一門。将軍家、幕府にごく近い藩、藩邸はもっと
江戸城に近いところにあってもよさそうではある。だが、
11万石と石高は高くはない。また、歴史の表舞台に華々しく登場
したのは、この幕末だけだったのかもしれぬ。ちょいと
これ以前を調べると、江戸期通して、久松松平家はあまり
恵まれた状態であったことは多くなかったようである。

閑話休題[藪伊豆]であった。

創業は天保年間というが、明治入って、藪の暖簾に入った
とのこと。少し前まで、京橋にあったという。
ビルだが、入ると落ち着いた老舗然とした店内。
和服姿の女将さん。

ランチ限定の「じゅげむ定食」というのにしてみる。

なんでもここ、先代小さん師との縁があったようで、
花緑師など今も定期的に落語会も開かれているよう。
それで、じゅげむ。

きた。

これで、1350円也。
今時、かなり、安かろう。

もり二枚。丸い土鍋のような器は鶏の柳川。
高野豆腐と蒲鉾、きんぴら。青菜のおひたし。
ご飯は、そばの実入り。

ここのそばは、細く、しゃっきりしているが、
若干堅めのゆで上がり?。

うまかった。ご馳走様でした。


藪伊豆総本店

中央区日本橋3-15-7
03-3242-1240

 

 

 

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