浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き・八丁堀・その5

八丁堀から、新川。






江戸の地図。




新川、旧霊巌島の突端。


隅田川テラス。


2月であったか、この町歩きで、佃島にいったが、
ここは、その対岸にあたる。
目の前は石川島の高層マンション群、
大川端リバーシティー。


右側は、回り込み、亀島川の河口。
亀島川水門。
今日は、水門は開いている。


川幅が広く、マンション群には緑もあり、
眺めはよいのだが、天気がよく、日差しがまぶしい。
まだ、5月だが、今日は私は、夏物の着物にしてきた。
羽織は黒い絽のもの。


正解であった。


いやこれでも、こんな川っ縁(ぺり)では
暑いくらいである。


亀島川の方に回り込んだところには、ベンチなどがいくつかある。
ピクニック気分か、弁当を食べている男女。
上半身裸で、昼寝をする若者など、なかなか、
にぎわっている。


隅田川もこの季節は、まだにおいもしないし、
眺めもわるくない。
着物など着ていなければ、ランニングにゴム草履で、
私も寛ぎたい場所、で、ある。


やっぱり、東京の水辺はこうして、再生させなくては
いけない。


ここの隅田川テラスは、亀島川水門で行き止まりになる。
ここから、堤防へ上がる。


上がったところに、江戸湊発祥の地、という
金のいかり、で、できた碑がある。


江戸湊、まあ、東京港の前身が、ここで生まれた
ということではあるが、イメージは、ちょっと
違うかもしれない。


今の港、と、いえ、桟橋があり、船が横付けするところ。
しかし、江戸の頃の、江戸湾には、そういうものは、
存在しなかった。


もっとも、船自体が小さい、ということもあるが、
それ以前に、江戸湾は、ご存知のように遠浅で、
港には、向いていなかったのである。


水深が浅く、江戸の頃でも千石船のような大きな船は
底が付いてしまい、このあたりまでも、入ってこれなかった。


よって、品川沖、あるいは、今のお台場あたりに
停泊し、そこから艀(はしけ)など、小舟に荷を積み替えて、
日本橋だったり、浅草(蔵前)にある幕府の米蔵だったりに、
運んでいたのである。


しかし、まあ、海に最も近い、隅田川のこのあたりは河口といってよく、
ここから佃にかけて、各地から物資を運んできた船が多く
係留されていいた。


それで、江戸の湊、と、いえば、このあたり。
実際に、この亀島川をはさんで対岸は、今でも
湊という町名ではある。
堤防を降りて、通りを左。


次を左。


すぐに、橋がある。
さっきの、高橋の下流で、水門の直前。
これは南高橋


こちら側の袂、右側に、徳船稲荷、と、いう
ちっちゃな社がある。


これは、なんでも、幕府の御座船の木を使って
ご神体を作ったので、こう呼ばれているらしい。
元は、松平越前守屋敷の屋敷神であったという。
御座船、というのは、やはり、御船手組との
関係があるのであろう。


そして、南高橋


橋の上に、トラス、というらしいが、
屋根のように、骨組が作られている。
なんでも明治に作られた、両国橋のものらしい。
両国橋が関東大震災で被害を受けて架け替えられたのだが、
まだ使える部分があったからであろう、ここにそのお古が
だいぶ短くなって架けられた。そういうことらしい。
車が走る橋としては、都内最古であるという。


この橋から右前方。


先ほど、高橋からも見たが、埋められた
八丁堀の河口、がここからも見える。


南高橋を渡って、信号を左。


と、すぐ右側に、大きな神社がある。


これが、鉄砲洲稲荷。


鉄砲洲稲荷は、このたりから、築地にかけての氏神様で、
今年はごたぶんに漏れず、諸事情鑑(かんが)み、お祭りは
中止。(三社も、拙亭のある元浅草などが
氏子の鳥越も皆、今年は中止、で、ある。)


しかし、このあたりも、お稲荷さんは本当に多い。
伊勢屋、稲荷に、犬の糞、などといたものだが、
ここもか、という感じである。


ともあれ。


鉄砲洲。


先に、鉄砲洲の方から、説明をしようか。


鉄砲洲という地域名も、今はあこのあたりの
ことだけだが、明治だったり、江戸の頃は、
このあたりから、明石町、築地あたりまで、
広い地域を指していたようである。


由来は、家光の頃、島原の乱が九州で起き、
この時に、オランダから大砲が贈られ、まだ、
埋め立てられてすぐのこのあたりで、試射が
行われ、それで、鉄砲洲、と、なった、
ということである。


で、この鉄砲洲稲荷。
やはり、由来は古いらしい。
古いらしいのだが、よくわからないという。


よくわからないくらい古い。つまり、江戸以前からあり、
その頃は、もう少し、西の方にあったらしい。
(それはそうである。ここは埋め立てられたはずであるから。)


それが、この地が、江戸湊として、にぎわった場所にあり
船乗り達の守り神として、信仰されるようになっていった
ということである。


お社にしても、右側にある社務所にしても
木造で立派。味わいのある建物である。


境内もきれい。


お社の向かって右奥。
ここに、少し、変わったものがある。


なにかというと、富士塚、と、いうもの。


見たことがある方はおられようか。
私は、子供の頃、比較的近所にあったので、
登って遊んだ覚えがある。




大分に長くなってしまった。
2週に渡ってしまうが、今日はこの辺で。



また来週。