浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き・八丁堀・その3

八丁堀。




江戸の地図。





日比谷稲荷から亀島川に沿って右へ。


そうすると、左に橋がある。


これは、高橋。


タカハシ、ではなく、タカバシと、濁る。
下に流れているのは、今は亀島川だが、その昔は、
越前掘、と、呼ばれていた。


向こう河岸は、今の町名は、新川。


新川というのは、亀島川日本橋川、そして
隅田川に囲まれ、今でも、島、のようなところである。


その昔、ここは、霊巌島(れいがんじま)、
と、呼ばれていた。


なんとなく、おどろおどろしい名前のようではあるが
実際には、そんなことはない。


この地は、元々は、やはり隅田川河口の中州のような
低湿地であったが、時代としては、この西隣の八丁堀の後に
埋め立てられた。


この埋立てをしたのが、霊巌上人というお坊さんで、
ここに霊巌寺というお寺を立てた。
これは、寛永の頃。
家光の時代なのでまだまだ、江戸も初期といって
よかろう。


その後、明暦の大火後、ご他聞に漏れず
霊巌寺も他の寺と同様に郊外(深川)へ移転させられている。


さて。


霊巌島をもう少し細かく見てみよう。


今は日本橋川と呼んでいるが、
その日本橋川隅田川に注ぐ付近、
この霊巌島の北側の堀は霊巌島新堀と呼ばれていた。


霊巌島(=今の新川一丁目、二丁目全域)は狭義には、
北側は新堀、南側が霊巌島と分けて呼ばれていた。


そして、間に新川という堀があったのである。
(新川は今は埋められてないが。)


現在の町名の新川はここからきている。


『新川、新堀』という言葉を聞いたことがある方は
おられようか。


なにかといえば、酒。むろん日本酒で、ある。


新川と霊巌島新堀の間、つまり新堀は、
灘、伏見など上方の酒蔵の江戸店が軒を連ねていたところ。


『新川新堀茅場町 下戸の建てたる蔵もない』なんという川柳も
残っている。


「この酒はなんだか水っぽいね」
「なにをおっしゃっているんです。
これは新川新堀の生一本(きいっぽん)ですよ!」


なんという会話が、落語の居酒屋でのセリフにも
あった。


「新川新堀の生一本」というのは、灘伏見の上方からの
下(くだ)りもので、うまい酒である、ということである。


余談だが、下らない、という言葉がある。
これはここからきている。


下ってくるものは、うまいものであるという認識があって、
“下らない”ものは、取るに足らないもの、ということで
生まれた言葉、で、ある。


そんなことで、霊巌島。


高橋の下は、越前掘。


越前掘の名前の由来。
上の、江戸の地図では、生憎欠けてしまったが、右側の上。


『霊巌島』と、書いた上のあたりから、北が、松平越前守の
下屋敷であった。
ここからきている。


松平越前守といいう名前でピンとくる方はおられようか。


越前福井藩32万石。藩祖はあの、家康次男の結城秀康
また、幕末の松平春嶽は著名である。
春嶽候も、松平越前守であった。


日比谷稲荷の路地から出てきて、向こう側へ渡り、
高橋の隅田川寄りを渡る。


橋の真ん中で、後ろを振り返る。


この、今の、高橋のかかっている場所の
隅田川に向かって右側の河岸が、実は、埋められてしまった、
八丁堀の出口であったところ。


そう思って見ると、なんとなく、あ〜、ここが、と、わかる。


橋を渡って、北詰。
左側にある大きなビル。


これは、キリンビールの本社ビル。
以前は、原宿にあったりしたと思うが、
ちょいと不思議なところにある。


真っ直ぐいって、二つ目の信号を渡る。
渡って右。


路地を、左。
さらに二本目を右。


このあたり、ちょっと、裏へ入ると、
木造の民家もあり、住んでいる人もまだいそうな
町並みになる。


左側に木々が植え込まれた空間が見えてくる。
これが、於岩稲荷(おいわいなり)田宮神社。


於岩、と書いて、お岩。


あの、怪談のお岩さん、で、ある。


こんなところにあったか、お岩神社、、。




といったところで、今日はこのへんで。



お岩さんはのことは、また明日。