浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



東京駅〜丸の内 その1

dancyotei2012-10-30

10月28日(日)

だいぶ寒くなってきた。

ちょっと、冬物のスーツを買いに出ることにした。

内儀(かみ)さんも同様で、彼女は銀座、私は丸の内。
彼女は一足先に出て、私とは丸の内のブルックスブラザースで
待ち合わせ。
その後、飯を食いに行こうということになった。

4時すぎ、元浅草の拙亭を出る。

雨模様の一日、で、あるが、今は降っていないので、
傘は持たずに出てきた。

稲荷町から銀座線で神田。
神田でJRに乗り換えて、東京駅というコース。

ご存知のように東京駅は復元工事が終了し、
この10月1日、フルオープンしている。

この10月1日以降もなん度か東京駅を使っている。

通勤で使っている駅ではないが、仕事モードで
鉄道を使っている場合、改めて、見物、という気分では
見ていない。

また、丸の内側の駅舎の外観は随分前にはできており、
もはや見慣れてしまってもいる。

中央線のホームの丸の内側の通路には、駅舎のレンガ壁を
見せていたりするが、やはり、改めて、見物する気分には
ならない。どうしてであろうか。

むろん再建なので、古くはなく、重みも感じない。
真新しい、珍奇な造り物に見えてピンとこない、のである。

丸の内のブルックスブラザーズというのは、丸ビルの2ブロック南の
ビルの一階に入っている。(このブロックは三菱一号館が復元されている
一画、でもある。)

さて。

久しぶりに江戸の地図を出しておこう。




現代の地図も。


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丸の内界隈。

現代の地図と見比べてみると、概略は変わっていないのがおわかりになろう。

ほぼ、南北は正しい方向に合わせてあるつもり、で、ある。

縦に二本、濠がある。
西側が内濠で、東側が外濠。

内濠は今でもあるし、外濠は今の東京駅八重洲口前の大きな通りが
外濠通りである。

この濠に囲まれた、中州のような、
江戸開府の頃は文字通り中洲であったのだろう、一画。

中央に南北に真っ直ぐ通りが通っている。
この通りは今の東京駅丸の内口の前の通りにあたり、
江戸の頃は“大名小路”と呼ばれていた。

松平三河、真田信濃、松平能登、堀田摂津、
などと書かれたあたりが今の東京駅の駅舎やホームのある付近。

外濠の東側は京橋やら、銀座やらで、すべて町屋であるが、
外濠の西側、つまりお城に近い方は、すべて大名屋敷。

この大名屋敷、すべての屋敷に家紋が入っている。
これはこの屋敷が、藩主が常駐する、上屋敷(かみやしき)である印。

丸の内は、内濠の外、ではあるが、北と南の両町奉行所、
あるいは大名、旗本など武士を裁く評定所、などもこの区画にある。

具体的な大名屋敷を少し見てみよう。

細川越中守。これはご存知、肥後熊本五十四万石の細川家。
外様だが室町時代からの名家で国持大名

松平内蔵頭、松平因幡守はともに池田家。池田家は外様だが、
松平姓を許され、内蔵頭は岡山池田家で、三十一万五千石。
因幡守は鳥取池田家で三十二万石。

真田信濃守。真田家はご存知、真田幸村の真田家で、信州松代十万石。
幸村の兄の信之が藩祖になり、もともとは外様。しかし、江戸後期、
松平定信の次男が養子に入り、天保期、老中にまでなっており、譜代扱い。

松平土佐守は、土佐山内家で国主。やはり松平姓を許されている。
同じく、松平阿波守は阿波徳島の蜂須賀家、国主で松平姓。

織(ヲ)田兵部は織田兵部少輔で、天童藩織田信長の次男信雄の家系で
江戸期は二藩が存続し、信長の子孫ということで小藩ながら国主並みの扱い。

これらをのぞく、ほぼすべてが徳川譜代中の譜代の名家で、
老中など数多く出した、そうそうたる家々。

例えば、阿部伊勢守。この地図は、安政期のものだが
この頃の当主はかの阿部正弘桜田門外に倒れた井伊大老の次に
老中となった人。

松平伊豆守は知恵伊豆と呼ばれた、老中松平信綱の大河内松平家
松平能登守も多くの老中を出している大給松平家。などなど。

道三濠の北側、内濠の西側などと合わせて、江戸城大手門お膝元の
武家屋敷としては最も重要な区画といってよかろう。

さて。

そんな江戸期の丸の内なのだが、江戸幕府瓦解になり、
日比谷にかけて、これらそうそうたる武家屋敷は取り壊され、
官軍の東京鎮台など陸軍関係の施設と練兵場などになった。

江戸は大名屋敷、明治は陸軍と、この界隈は町人、庶民には
まったくといってよいほど縁のない場所であったわけである。

しかし、明治も年がすぎてくると、さすがに皇居間近で東京の中心部の
こんな町中で兵士の訓練などそうそうできるわけもなく、
明治20年には青山へ練兵場が移転する。
そして、丸の内は、ただの野っ原となり、ますます人が通らない、
追いはぎでも出そうなところになった。

さて、この頃はどんな時代であったか。

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布。
翌23年、第一回帝国議会衆議院総選挙が行なわれている。

明治政府は文明開化から富国強兵、不平等条約改定を目指して、
がんばっていた頃。条約改定の条件であった憲法と、議会が
できたころ。

実際のところ、軍備を増強しなくてはならない当時の明治政府というのは、
極端に金がなく、陸軍移転後のこの丸の内を民間に払い下げて、
すぐに金にしたかった。こういう背景がある。

そこで、その政府の足元を見た(といわれている)のが、
岩崎弥太郎亡き後の三菱を率いていた弟の弥之助、で、あった。

弥之助は明治23年、10万1千坪の丸の内の土地を政府から
150万円で買い取った。

これ、高いのか安いのか?。

明治20年頃の教員初任給が5円、という。
今の大卒初任給が20万程度であろうか。
単純計算すると、150万円は、600億円。

逆に、丸の内の今の路線価、89,256千円/坪で計算すると、
10万1千坪は、9兆8181億円。

あまりにも桁が違うので、ちょっと比較にはならないか。

土地の価格などというものは相場であるし、また、
例えば、単位面積当たりの生産性、その土地でいくら儲けられるか、
なんという計算から価値を導き出す方法もあるのだろうが、
複雑化した現代と明治のこの頃を比較するのはあまり意味はなかろう。

ともあれ、当事、三菱内部では、あの原っぱに150万は
無謀であるという声もあったともいう。

ともあれ、これで、丸の内の原っぱ一帯は「三菱ヶ原」と
呼ばれるようになった。

そして、4年後、今、再建されている赤煉瓦の
三菱一号館が完成し、その後現代に至る三菱村が始まっている。

と、江戸から明治へと丸の内の歴史を見てきたわけだが、
皆さんはちょっと不審に思われまいか。

東京駅は?、と。

そうなのである。
この頃はまだ丸の内には東京駅はおろか、鉄道もなかったのである。


長くなった。
つづきはまた明日。