浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



富山・ますのすし その2

4455号

引き続き、富山「ますのすし」から押し寿司というのは
いったい、なに者であるかをみている。

日比野光敏先生の研究を紹介している。

日比野光敏「だれも語らなかったすしの世界」2016(旭星出版)

すしのルーツは東南アジアで、魚の保存のため、
飯とともに漬け、発酵させたもの。
これが卑弥呼の時代に日本に入った。
この頃からずっと、発酵ずしであった。

それが、時代が下り、江戸時代の少し前に、漬ける際に
糀、酒、酒粕、酢を添加するようになった。

ここからすしが大きく変わった。
発酵させずに飯に酢を混ぜた酢飯を使ったすしが
現れるわけである。

享保13年(1728年)『創刊の『料理網目調味抄』には、
箱寿司に酢を注ぐ」という表現があり』 (ウィキ

これが大坂。箱寿司という名前だが、いわゆる押し寿司
のこと。塩漬け・酢〆など下拵えをした魚を酢飯にのせ、
短時間押して熟成させ、ご飯も合わせて食べる、押し寿司
(姿ずしを含めて)の誕生といってよいのであろう。

享保というのは吉宗の時代で江戸時代のほぼ真ん中。

発酵させずに酢を使うすしは、その後、ちょうど100年程
後の文政期に江戸で生まれたにぎり鮨とともに、早ずし
といわれる。

ただ、ここで気を付けなければいけないのは、すべての
発酵ずしが酢を加えた酢飯で作る早ずしに取って代わり、
発酵ずしが滅んでしまったわけではない、ということ。
また、ここまでに地方毎に違った発酵ずしが既に
できあがっており、全国一様ではなく、各地で様相は
違っていたということ。
現に、琵琶湖の長期発酵させる、ふなずしは現代まで
作り続けられている。

さて、ここで話は富山に戻る。
今回のテーマ、現代の富山の「ますのすし」まで
どんな歴史があったのか。

富山のすしは、江戸期、ますではなく、鮎を使った鮎ずし、
というものが存在していたことが記録に残っている。

日比野先生は、献上すし、という言葉を使われているが
江戸期、各大名から将軍家に各藩名物のすしを献上する
ということがよくあったという。
それだけすしというものが、うまいもの、であったことが
わかるだろう。

江戸期の富山は、隣の加賀藩前田家の分家で富山藩。
この富山藩が、鮎ずしというものを将軍家に献上
していたという。時期は享保以降、複数回確認
できるよう。

鮎ずしというのは実のところ、富山以外にも江戸期各地で
名物として存在し、例えば、尾張藩長良川の鵜飼で獲った
鮎から作った鮎のすしも献上ずしになっていたのが
わかっている。

また、歌舞伎「義経千本桜」のすしやの段に
登場するすしやも、奈良県吉野の吉野川の鮎のすしである。
芝居にも縦長の桶が登場するが、これは漬け込んだ
発酵ずし。

享保というと先に書いたように大坂では酢飯を使う
押し寿司が誕生していたのだが、富山の鮎ずしも、
酢飯の早ずしではなく、皆、発酵ずしなのである。
富山で鮎を開き塩漬けにし、江戸に送る。
江戸でご飯に十日以上漬けて鮎ずしを作り、将軍家に
献上していた、と。

そして、もう少し時代が下るとどうなったか。
文政11年(1828年)刊のあの弥次喜多東海道中膝栗毛
十返舎一九作に「金草鞋(きんのわらじ)」という
道中記がある。
ここに「富山・神通川べりのシーンでは「川岸の茶屋、
鮎の鮨名物なり」「其鮨の旨いこと、誠に食った人は
皆頬尻が落るやうだ」と。

これが、先の富山藩献上の鮎ずしと同じものかどうかが
問題である。日比野先生は「すぐに食べるものか、時間を
置くのかで、漬け方を分けた」との明治期の文献から
茶屋で売っていたのは、酢を使った早ずしであった
としている。

つまり江戸中期から江戸後期の間に富山の鮎ずしは、
発酵ずしから早ずしに変わっていた。(併存である
ことにも注意したい。)

さて、一方。
今回買った「ますのすし」の ますのすし本舗・(株)源の
Webサイト
には「明治45 年(1912年)に「ますのすし」を
販売開始。」とあり「当時はまだ、富山の名物といえば
あゆずしでした。」

ともある。

つながった!。
なぁ~んとなく、わかってきたではないか。

明治も終わりに近い頃でも、富山といえば、十返舎一九
書いた江戸以来の鮎のすし(早ずし)が人気であった。

が、その後、あんなに日本中で評価されていた鮎のすしに
かわって、ますのすしが富山NO.1すしの地位を獲得して
いった。なぜか?。企業努力というのもあったのであろうが、
やはり、鮎のすしよりも、うまかったからではなかろうか。
(日本人の好みの変化?。また、わからぬが、鮎が獲れなくなった?。
価格が高くなった?、そんなこともあったのか。)

日比野先生によれば、越中富山では、平安時代から
さけ、ます、のすしは文献にも登場し、鮎ほど著名ではなかったが、
知られていたものだったよう。
おそらく、さけ、ますのすしも、時代を経て、発酵ずしから
早ずしへと鮎ずし同様の変化を遂げていったのではないかと、
これは私の想像。

一方で、富山で、一般にはほとんど知られていないようだが、
発酵させる鮎のすしは、神通川川漁師によって継承されて
いるという。これも食文化である。

富山すし物語概観、なかなか興味深かった。

さて、ますのすしはうまい、のだが、鮎のすし、
私は食べたことがあったろうか。

探してみると、鮎のすしは、駅弁でも数は多くないが
あるにはあるよう。(京都府園部駅熊本県人吉駅
鮎のすし、なんとなく味は想像ができそうであるが。

 

 

 

 

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