浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



つけ麺三題/神田猿楽町つけそば神田勝本/神田司町つけめん金龍/六厘舎上野店 その1

4329号

連休で例年通りお休みをいただいていた。

今日は、連休前に書いていた、つけ麺。
つけ麺というのは、いったいなんであろうか。
探索、勉強のため、人気の店にも行ってみたので、
書いてみたい。

ラーメン専門投稿サイト「ラーメンデーターベース」
のつけ麺ランキング。

これを参考にした。
ベスト10に元浅草の拙亭から自転車で簡単に
行けるところが意外に三軒もあるのに驚いた。

まず、ここ。

4月27日(木)第一食

つけそば神田[勝本]

連休直前の木曜日。
場所は、神田でも猿楽町。
靖国通りから水道橋方向に猿楽町を貫いている錦華通り。
この錦華通りはご存知であろうか。この界隈にあった
錦華小学校というのに由来している。夏目漱石
一期生という。

ともあれ。[勝本]は靖国通りから錦華通りに入って
少し行った右側角。
2時近くに付いた。昼夜通しで売り切れじまいのよう。

10人程度か、かなりの列。
列について、しばらくたつと、お兄さんが出てきて、
食券を買って、列に戻れとの指示。
順番がきて食券を買いに店内へ。
味玉清湯つけそば1100円也を購入。
さらに待って、食券をお兄さんが取りにくる。
(この一連の段取り、最近の行列店では多いので覚えて
置きたい。)
トータル30分近く待ったか。
ご主人とお兄さんのツーオペのようだが、かなり
ステマティックでよく運営されている。
なにかピリッとした空気が店内に漂っている。
和食店のような白木のカウンター。

カウンターについてからも、しばらく待って
登場。

きれいに揃えられたかなりの量の麺。
前に並んでいた隣のサラリーマンお兄ちゃん二人は、
仕事中サボってか、ズルズルと、もの凄い勢いで
爆食開始。

それにしてもこの麺、きれいに並べるものである。
青いのはすだち、か。海苔が二枚。

つゆには煮玉子、チャーシュー、メンマ、なると、
三つ葉と、その上に、黄色い、こちらはゆず。

すだちを麺に絞って食べ始める。

清湯といっているが、多少薄めだがしょうゆの色。
ここには休止中のようだが、煮干と銘打っているのも
あるようで、これはノーマルタイプということか。

とてもバランスの取れているつゆであろう。
魚介プラス、なんだか判別はできないが動物系も?。
うまい。
麺はもちもち。量もあり食べ応えたっぷり。

が、残り1/3ほどになってくると、あー、薄く
なってくる。
ありがちだが、惜しい。
清湯といって、つけ麺主流のこってりとんこつ(?)系で
ないだけに、それが弱みなのかもしれぬ。

麺はスゴイだけに、薄まるつゆが目立ってしまう。

まあ、正直な感想ではある。


twitter

千代田区神田猿楽町1-2-4

さて、次。

5月3日(水)第一食

神田司町つけめん[金龍]。

三軒の内、もう一軒、ベストテンには、[Tokyo Style?
Noodle ほたて日和]というのが秋葉原佐久間町にある
のだが、ここは、開店前なのか、記帳制で早く行かねば
ならず、とりあえずチャレンジはペンディング

そして[金龍]。
ここは並べばよいよう。

神田司町というのはどこであろうか。
まず、町はチョウではなくマチと読むよう。
東京では珍しい。

そして、そうそう知られた町名ではないのでは
なかろうか。
最寄り駅は、丸の内線淡路町と都営新宿線小川町。
靖国通り外堀通りの交差点、淡路町交差点の
南側なのだが、すぐ南ではなく、1ブロック置いて南の
外堀通りの両側。毎度余談で恐縮であるが神田司町のこと
ちょいとおもしろいので、少し書いてみる。

そもそも、まずここが外堀通りというのが妙であろう。
知らない方も多いかもしれぬ。
ここは江戸城外濠の跡でもなんでもない。
そもそも江戸城外濠は平仮名の「の」の字で
完全な環状に閉じてはいない。
この通り、ここの南側、外濠(日本橋川)の鎌倉橋から
始まり、神田川にぶち当たる昌平橋までを外堀通り
してしまった。
どうしても環状線にしたかったのであろう。

ともあれ。神田というのは住民運動などもあり、
比較的昔の町名、区割りが残っていると聞くのだが、
神田司町という町名は江戸からのものではなく、
昭和10年から。江戸からの町名だと、このあたりは
神田三河町(三丁目)、靖国通り側は雉子町といって
いたよう。

しかし!ここ、もっとおもしろいことがあった。
地図をよくよく見ていくと、現町名、神田司町は皆、
二丁目。まわりを見ても、なんと一丁目がないという
不思議な町なのである。
なぜか?。
調べると、2012年日経新聞に記事があった(神田に
「1丁目のない町」)。読んだ方もあるかもしれぬ。
これがまさに住民運動の結果であったようなのである。
この神田司町二丁目の南隣は、今は内神田一丁目、
二丁目なのだが、ここが以前は神田司町一丁目だった
のである。これが戦後昭和41年の住居表示変更で
内神田になったが、神田司町二丁目は住民が反対し、
そのまま二丁目だけ残ったという。


つづく

 

 

 

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