浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草千束通り・ふぐすっぽん・つち田 その2「吉原へどう行っていたのか、どう帰ったのか。」

4194号

10月16日(日)夜

さて、引き続き、千束通りのふぐや[つち田]、
なのだが、この界隈に老舗ふぐやが集中していた(る)
ことから、その理由、そして、明治以降の吉原へ
どう行っていたのかを考えてみている。

吉原にどう行こうが、どうでもよいではないか、
と思われる方も多いかもしれぬ。

江戸落語がホームグランドである私にとっては
これは重要な問題なのである。

江戸落語には相当数の吉原を舞台にした噺があり、
その多くが、行き帰りを丁寧に描写している。
そうすると、ある程度どう行って、どう帰ったのか
という常識がわかってくる。
落語を知っている方は、ご理解いただけると思う。

そこで私が、気になったのは当の老舗ふぐやの吉原の
「帰り」にふぐやへ寄った、というコメント。

落語で語られる吉原への行き方、帰り方は夜行って
泊り、翌朝帰るというのが定型である。
なんでもよいのだが例えば「明烏」「付馬」、、
どれも夜行って、朝帰る。「明烏」は行きを「付馬」は
帰りを丁寧に描写している。

おそらく「帰り」というのは誤解で「行き」であった
と考えるべきではないか、と。

江戸や、明治初期の交通手段の限られていた頃は
もとより、市電、タクシーの発達してきた、大正、
昭和初期でも、少なくとも戦前までは、この泊まると
いう習慣が主流であったのではないか、と。

行く前に、呑んで食ってから、吉原にくり込む。
これは池波先生の証言などもある。
エッセイに書かれているが、先生は10代の頃、
海軍に入るまで、兜町の株やの小僧として働いていた。
その仕事とは別に自分でも株をやって、けっこうな
金額を儲けた。
この金を、当時気に入った女性のいた吉原の妓楼に
預け、通っていた。
吉原に行く場合は、友達などと例えば神田須田町
鳥鍋や[ぼたん]などへ寄ってからタクシーで
くり込んでいた、と書かれている。
先生は大正末の12年(1923年)の生まれ。
遊んでいた年代としては、太平洋戦争直前。
吉原で泊り、翌朝、吉原から仕事へ出掛ける。
もはや先生は浅草永住町(現元浅草)の実家を出ており、
一応の自分の住まいはあったが、まあ、帰ったり、
帰らなかったり。そんな生活。

この頃でも吉原は泊りは、あたり前、既定の習慣であったと
考えてよいと思うのである。

また、廓内の飲食にはかなり金がかかった。
圓生師は「松葉屋瀬川」の中で語っている。吉原妓楼内の飲食、
いわゆる“台のもの”の値段を「やかましくなった大正の頃
でも、外の4割5分は高く取った」「例えば、外で20銭か30銭の
鮨を1円にしていた」と。
廓内は江戸から見栄の場所であり、高い値段を付けることが
むしろあたり前になっていたのである。
やはり、外で食べて行った方が得だし、選択肢も広い。
中で頼む人は、時代とともにいなくなっていたのでは
なかろうか。

こんな例もある。
今も吉原大門前の土手通りにあるが、桜鍋の店。
これらもふぐや同様に、明治末から大正の頃、
かなりの数がこの界隈にできた。流行といってよいだろう。
当時、馬肉は“蹴っ飛ばし”などとも呼ばれ、馬肉を喰って、
力を付けて、吉原へ!と。
わかりやすかろう。断じて、帰りではない。

さて、帰りではなく、行きであったであろうということは
大方、ご理解いただけたと思う。
こういうこと、文献資史料は私が知っているのは池波先生の
エッセイくらいで、記録のようなものがあるわけではなく、
どのくらいの客が泊りであったか、など明確な数字の
エビデンスは持っていないのだが。
(ちなみに、論旨から外れるが、帰りになったのは戦後であろう。
この誤解であったかもしれぬ。)

さてさて。
浅草、特に吉原に近い千束通り周辺になぜふぐやが
今も多いのか、それはいつ頃どんなふうに始まった
のか、というのは、わかったのではなかろうか。

この一連を見てきて、もう一つ気が付いたことがあった。
今日も[つち田]にたどり着かないのが恐縮だが
まあ、毎度私の勝手で書いているのでお許しいただきたい。

もう一度、最初の明治40年の地図を出してみよう。

吉原へどう行ったのか、どう帰ったのか、に関わるのだが、
志ん生師が吉原の噺をする場合「土手八丁、惚れて通えば千里も一里
長い田圃も一またぎ」なんというフレーズをよく言っていた。

吉原へ行くのには、江戸の頃はほぼ一本道であった。

浅草から馬道通り、山谷堀の土手通りに出る。
この土手が土手八丁と言われていたのである。
大門前で土手を降りて、見返りや柳という柳が植わっており
これを見て、S字を通り吉原大門へ。

この大門以外は一応、鉄漿(おはぐろ)どぶと呼ばれる
堀に囲まれ出られないようになっていた、ということに
なっていた。堀に橋が掛けられており、実際には江戸期も
出られた、という話しもある。時代によっても違って
いようが詳細、リアルな姿は私はわかっていない。

ともあれ、江戸期から明治初期までは大門の一本道
ということにして、話しをすすめよう。

上の明治の地図を見ると、もっと多数の外への道が
あるように見えるのではなかろうか。
大門から入った吉原の中央の通りを仲之町というが
この突き当りに吉原病院という病院がある。
今も、この病院は私も通ったことがあるが、台東区
台東病院として存続している。
ここは以前は水道尻という名前であったが、ここが既に
通り抜けできるようになっていると思ってよいのだろう。

また、千束通りからふぐやのあたりで左に曲がり、
今は花園通りといっている吉原の東端の鉄漿どぶ沿いの
通りに出る。このどぶにも橋が架かっており通れた。
これは、証言史料も知っている。(波木井皓三 「大正・
吉原私記」)。大正以前、明解な年代はわからぬが、
明治終わり、さらに中頃あたりであろうか。

また、落語「付馬」は噺の性質上というのもあるが、
吉原からの朝の帰り道をかなり丁寧に描写する。
ここで志ん生師は歩く場所を実名を出して「千束町の通り」と
いっている。
師なので、大正から昭和戦前の肌感覚であろう。
これも、千束通りルートが一般化していたことを
裏付けていると思うのである。
実際のところ、馬道から土手をまわるよりも、
六区などからは、千束通り経由の方が断然早い。
このあたりにふぐやが集まっているのは、偶然では
なかろう。

つづく

 

 

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