浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浅草千束通り・ふぐすっぽん・つち田 その1「なぜ浅草にはふぐやが多いのか。」吉原とふぐやの関係について考える。

10月16日(日)夜

さて、ふぐ、で、ある。

そろそろ季節。
だが、鍋ではなく、焼き。焼きふぐ。
直近、なにかのTVで視たのがきっかけではあるが、
過去、焼きふぐはなん度か食べている。鍋よりも焼き、
の方がうまいのではなかろうか。

浅草というところ、なぜかふぐやが多い。

今までふぐや、というとご近所、拙亭のある元浅草から
左衛門橋通りを北上した合羽橋本通りの [牧野]であった。
が、コロナもありまた、人気で予約が取りずらく
なってしまった。

それで、今回は、千束通りの[つち田]。
ここも老舗で有名店であるのは知っていた。

当日、昼すぎにTELをして予約ができた。
17:30。

さて。浅草には、ふぐやが多いと書いたが、
なぜであろうか。
今でもそうだと思うが、東京、関東、広く東日本では
ふぐを食べる習慣は西日本ほどではないと
いってよいだろう。

ではなぜ、浅草に集中してあるのか。
浅草、あるいは浅草周辺も含めて、多いのだが、
特に、言問通りあたりから千束通りになん軒か
老舗が集中している。
[つち田]の焼きふぐの前に、今日はこのことを
ちょっと考えてみようかと思う。

TV東京「アド街」によれば、浅草ふぐや最古参の千束通りそば[魚昇]の
コメントとして「明治30年代以降、吉原帰りに食事をする文化が
根付き、その中にふぐ料理も含まれていた為、ふぐ料理屋さんが
多い。」とある。

私なりの解釈、考察を少ししてみよう。
まず明治30年代以降、という年代。[魚昇]の創業が明治37年
(1904年)なのでこういうコメントになるのであろう。
この頃というのは日清戦争後と位置付けられる。
明治も30年代になるといわゆる文明開化も進み、
一般民衆の生活とマインドも変わり始めた頃といって
よろしかろう。玉子を高級だが庶民も食べられるように
なったり東京の盛り場に洋食やができ始めたり。

そして東京の外食文化として、この頃から徐々に
関西から料理人と料理が入り始めたのではなかろうか。

東京の高級料理には江戸からの江戸割烹料理というものが
元来存在した。[八百善]という名前が真っ先に思い浮かぶだろう。

最終的には、関東大震災後に東京の高級料理やは、江戸割烹
料理から、京料理に代表される、関西の割烹料理にほぼ
塗り替えられ、江戸割烹料理は事実上滅んでしまった。
詳細には今日は書かぬが[八百善]の歴史を調べると
見えてくる。江戸の伝統味噌、例の江戸甘が生産量を一気に
減らしたのも震災後。

ちょいとそれるが、なぜ、江戸割烹料理が関西割烹料理に
駆逐されたのか。これは簡単。関西の方がうまかったから。
江戸をはじめ、関東は土が赤土、関東ローム層でやせており、
京大坂周辺にくらべてうまい野菜ができなかった。
これが一つ。もう一つはこの野菜の旨味を補うことに
なった、濃口しょうゆが野田・流山、銚子で誕生したこと。
江戸・東京の在来料理は皆、真っ黒だが、これは旨味の多い
濃口しょうゆの味。やはり、これでは京大坂ほど料理技術が
進歩しなかったというのも無理からぬ話であろう。

ともあれ、明治30年代頃から関西の料理人、料理が東京へ
流入し始め、それとともにふぐ、特に関西風のとらふぐの
ふぐ刺し、ふぐ鍋を高級なものとして食べさせる店が
できていったのではないだろうか。ちなみに東京府では
ふぐ食は禁止されていたが明治25年(1892年)に内臓を
取り除くことを条件に解禁されているよう。(wiki)

ではなぜ、浅草、千束通り周辺なのか。

先の[魚昇]のコメントにもある通り、当時も官許の
遊郭として存在した吉原直近の街であったこと。

おそらく、ここ以外にも、当時であれば、新橋(銀座)、
葭町(人形町)、柳橋といった東京一流の三業地(芸者町)
でもふぐやはできていったのかと思う。ちょいと調べると、
人形町にも今もふぐやは、数軒あるよう。

では当時のこの千束通りあたりを見てみよう。

明治40年である。

現代も。

吉原と、千束通りの位置関係がおわかりになろうか。
[つち田]の場所も入れた。ちなみに[魚昇]もこの近く。

落語好きの方であればご存知であろう。
吉原というのは、多くの落語に登場する。

吉原へはどう行って、どう帰るか。この問題、で、ある
さらに[つち田]から、横道にそれるのだが、
おもしろいので、これも考えてみたい。

先の[魚昇]のコメントにある「吉原帰りに食事を
する文化が根付き」の部分である。
これ、ちょっと誤解がありそうなのである。
(聞いて書いた「アド街」の誤解かもしれぬ。)

落語で語られる場合、吉原は夜行って、翌朝帰る、
というのが一般的であった、と。つまり、泊り。
(時間単位で遊ぶ格安の小店と呼ばれるところは
例外であったろう。)

昼遊び、というのも語られるが、基本、仕事を
持っている者は、夜が、普通であろう。

吉原は浅草からも少し離れており、交通手段は歩きか
江戸時代であれば、駕籠。夜早い時刻にきて、夜のうちに
帰るというのは難しい。

明治になって、人力車、あるいはさらに時代が下れば、
市電、タクシーいうのも出てくるが、現代に比べれば、
便はよいとは思えず、タクシーは高価。その夜のうちに
帰るということは少なく、大正、昭和初期まで泊りの
習慣は継続していたのではなかろうか。
むろん泊った方が楽であることはいうまでもない。

ふぐやに寄るのは「帰り」ではなく「行き」であった
のが正しかろう、と。「帰り」だと朝飯になってしまう。

吉原の廓内、妓楼内でもむろん飲食、さらには芸者を
呼んで騒ぐことはできるし、そういう遊び方は
江戸期から一般的であったことは落語、芝居の中でも
描写される。が、これは実のところ高額の出費を
強いられる。それで、先に外で食べてから、吉原へ向かう。

 

つづく

 

 

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