浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



浦里 その1


12月14日(日)第一食

さて、日曜日、第一食。

昨夜、スープカレー用に飯を炊いたのがある。

これで簡単に飯にしようか。

内儀(かみ)さんが買った大根が一本まだある。

おかずは、おろし。

それも『浦里(うらさと)』にしてみようか。

浦里というのは、池波レシピ。

あまり有名なものではないが「その男」という
幕末を舞台にした一人の直参の剣士の話しに出てくる。

〜〜〜〜〜

大根おろしへ梅干の肉をこまかくきざんだものをまぜ合わせ、

これへ、もみ海苔と鰹ぶしのけずったものをかけ、醤油をたらした一品で、

炊きたての飯を食べる

 この一品。名を〔浦里〕といい、吉原の遊里で、朝帰りの〔なじみ客〕

の酒のさかなや飯の菜(さい)に出すものだが、、」

「ちょいと、その、うまいものだ。」

「その男(一)」池波正太郎 文春文庫

その男(一) (文春文庫)

その男(一) (文春文庫)


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浦里、というのは、一般名称なのであろうか。

これ、前から気になっていたのである。
ひょっとすると、池波先生の創作なのでは、と。

なぜなら、この作品以外の池波作品はもとより、
落語やら、その他聞いたことがないのである。

浦里という名前がまた、いかにも、で、ある。

花魁(おいらん)の名前風。

“風”というよりも花魁の名前そのものか。
落語「明烏」の花魁は、浦里であった。

ただ、花魁がお客に翌朝の簡単な飯の菜や、酒の肴に
作って出した、というのは、なにやら実話に読める。

それも池波先生の実体験として。

池波先生は小学校を卒業すると奉公に出て、
各所を転々とするが、株屋の小僧に落ち着く。

そして、いつしか自分でも株をやるようになり、
あるとき当てて、若い身空で大金を得た。
そんなこともあってか、戦争へ行くまで、
吉原は我が家同然であったという。

池波先生は大正12年の生まれで太平洋戦争開戦の
昭和16年には18歳になっている。
この頃の話しである。

吉原というのは、ご存知の通り、
江戸随一の遊郭であったわけである。

池波先生が通っていた頃の吉原がどんなものであったのか。

落語にもむろん吉原は数多く登場し、廓噺(くるわばなし)などといって
一つのジャンルを作っているくらい主要な舞台である。

「稲本、角海老、大文字、品川楼。大店(おおみせ)でございます。」(文楽師「明烏」)
「おあがりになるよ、ってんで、幅の広い階段をトントントンと上がって」
志ん生師「付き馬」?)
「堀から上がって一口やって、夜は仲へでも行ってわっと騒ごうか」
(馬生師「あくび指南」)

落語に出てくる吉原風景である。
“仲”というのは吉原のメインストリート仲之町のことなのだが、
吉原そのものをいうようになっていた。

ただ、おそらく落語に登場する吉原というのは、
江戸末から明治までの風景であろうかと思われる。

また、歌舞伎にも数多く登場する。
有名どころでは、例の助六と揚巻の登場する、
助六縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』なんというのがあって、
このあたりの風景が歌舞伎で様式化された吉原の代表なのであろう。

ご覧になった方はおわかりなろうが、先の大門を入って真ん中の
仲之町の通りを描いた舞台。





満開の桜が両脇に植えられている。
その後ろに、引手茶屋が奥へ行くほど小さくなる遠近法で
描かれた書き割り。

助六縁江戸桜』の成立を見てみると、文化文政よりも
少し前、江戸中期くらいの吉原のイメージかもしれない。

また吉原は映画、ドラマでも度々舞台になってきたし、
最近でもドラマ『仁』などの人気作品もある。

大方、我々の吉原のイメージはこんな感じ、
なのではなかろうか。

長い鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)をなん本も頭に刺して
派手な打掛を着て、三本歯の下駄を履き、内外八文字(うちそと
はちもんじ)なんという歩き方で、道中をする、花魁道中。

いろいろ調べてみると、明治までは大方はこの江戸からの
吉原が続いていたと思ってよいようである。

吉原の転機は明治終わりから大正にかけて、
女性解放運動の高まり、
大正デモクラシー、で、ある。

これを背景に、それ以前は借金のかたに売られ
女郎として働くことを強いられてきたわけだが、
自由廃業といって、自らの意思でやめることが
できるようになっていった。

そして、関東大震災で吉原も灰燼に帰すと、
ほぼ江戸からの、遊郭吉原は、花魁道中なんという
様式も格式も、実に様々細かくあった習慣、習俗も
なくなった、という。

ただ、吉原そのものは、残っていた。

池波先生が通っていた昭和の初めというのは、
そんな時期である。

我々のイメージにある「吉原遊郭」ではなかった
はずだが、実際にはどんなものであったのか。
残念ながらわからない。

明日につづく