7月7日(火)第一食
さて。
今日は、上野のとんかつ[蓬莱屋]、で、ある。
と三軒で上野とんかつ御三家などと呼ばれている。
しかし、私が行く頻度では三軒ではもっとも低いかもしれぬ。
なぜかというと、ひれかつ専門であるということ。
とんかつやでひれかつ専門というのは、やはり
珍しいだろう。他にあるのであろうか。
私は聞いたことがないかもしれぬ。
私はとんかつやでは、ロース専門。
ヒレはまったく食べない。皆無である。
自分でもひれかつを揚げたことはないと思う。
だが、たまにはここにも行かねば。
比較をすればロースが好きというだけで、
よい店だし、むろん、ひれかつはうまい。
大正元年(1912年)創業。
新宿の[王ろじ]も古いが、大正10年(1921年)。
[ぽん多本家]は明治創業でさらに古いのだが、今も洋食や
を名乗っているので、おそらく東京に現存する
「とんかつや」の中ではここが最古ということになる
のであろう。
この、明治終わりから大正の初めが、東京で
とんかつの生まれた頃ということになる、と、考えている。
上野がとんかつ発祥の地などといわれることもあるが、
実際には[王ろじ]のように同時に東京各地で
人気メニューであった洋食やの豚のカツレツが独立、
これだけを出す店が現れ始めた。ただ、上野は少し他より数が
多かった。この[蓬莱屋]も今の松坂屋裏で、屋台で始めた、
という。
日清、日露戦争後。国力の向上、国民の生活レベルも
上がり、大正デモクラシー、月給取り(サラリーマン)
という中産階級の出現。
また、二つの戦争の経験。以前に調べたことがあるが、
当時の軍隊での人気メニューNo.1は豚のカツレツであった
という記録がある。これも、豚のカツレツが広まった
要因の一つであろう。こんなことを背景にこの時期、
とんかつやは生まれた、と考えてよいと考えている。
さて[蓬莱屋]。ここは日本映画の不朽の巨人、あの
小津安二郎監督の行き付けでもあったのも、有名である。
小津監督は明治の東京深川生まれで、亡くなったのは
昭和38年。
「東京物語」「浮草」などの主要な名作を生んだのは、戦後。
[蓬莱屋]は監督の最期の病床にとんかつを届けたというが
通ったのは、監督活躍の戦後の昭和38年までと重なって
いるのであろう。
12時少し前、自転車で到着。
白い暖簾を分けて、入る。
入ったところにカウンターと調理場。
奥に、座敷もある。
先客は二組、三人。
多少、席数は減らしているのか。
カウンターの手前角に掛ける。
ビールと、ひれかつ定食を頼む。
ここの瓶は、エビス。
お通しは、以前から変わらない。
枝豆のひたし豆。
ここ、かつの単品はないのかもしれぬ。
他の店では、ご飯と味噌汁はもらわないが、
そのままもらうことにする。
元祖、二度揚げ、などともいう。
ここも、揚げるまで、そこそこ時間がかかる。
ゆっくり、呑みながら、待つ。
きた。
濃いめの揚げ色。
アップ。
油切れもよい。
切り口は、ほんのりピンク色。
最近、とんかつやでは塩で食べてみることが多い。
だが、ここは、カウンターには塩は置いていない。
言えばもらえるのかもしれぬが、そんなことをするのは、
野暮、というものであろう。
キャベツにはソースをかけるが、ひれかつは
なにもつけずに食べてみる。
ん!。
これで、いける。
肉は見た通りしっとり、柔らか、うまみにあふれている。
なにもなしで、下味の塩胡椒の味がわかる。
意外にしっかり付いているのかもしれぬ。
ソースもかけてみるが、比べると、なし、の方が、
うまいかもしれぬ。
塩を置いていないのは、あえて、ということで
あろうか。
きっと、そうであろう。
塩をくれ、というお客もいないはずはなかろう。
食べ終わり、勘定。
ご馳走様でした。
うまかった。
今日は、ちょっと発見、で、ある。
台東区上野3-28-5
03-3831-5783