浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き7月 その1


7月16日(土)



さて。



7月の『講座』、「池波正太郎と下町歩き」。



食事の場所は、昨年の7月と同様、
深川森下の、桜鍋・みの家。


しかし、今年は、スタートの場所を変えた。


昨年は、北側の両国から、回向院、本所松坂町吉良邸跡、
勝海舟生誕の地、そしてご存知、本所二つ目軍鶏鍋屋五鉄、
弥勒寺を経て、みの家、であった。


つまり、北側からみの家を目指したが、
今年は、南側の清澄白河駅から、高橋、万年橋、
芭蕉記念館、深川の神明様などを経て、一度、
森下を越えて北上。
二つ目橋(二之橋)まで行き、弥勒寺に戻り、
みの家。このルートにした。








いや〜、しかし、暑い。



この、炎天下を歩くのは、昨年も同様であったが、
なかなか、厳しいものがある。


私の恰好は、昨年同様、「かまわぬ」柄の浴衣に、
下駄。


スポーツドリンクと、手ぬぐいも5〜6本
鞄に入れてきた。


と、いうことで、清澄白河駅の高橋南詰の
出口からスタート。


高橋、と、書いているが、これは、
タカハシ、ではなく、タカバシと、濁る。


同じ名前の高橋は、先々月の新川、八丁堀の回にもあった。
亀島川、旧越前掘に架かる橋。


由来は、船が下を通るため、いわゆる太鼓橋と呼ばれる、
中央部に向かって高く円弧を描いた橋であったから。


高橋の下を流れるのは、小名木川(おなぎがわ)。
川、といっているが、まあ、堀である。
江戸・深川を、東洋のベニスなどといっていた先人も
あったが、その数多い掘割のうちの代表的な
一本である。川幅は二十間。およそ36m。
随分と広い。


まずは、このあたりの歴史から書き始めよう。


深川、というのは、江戸時代からのこのあたりの
地域名、で、ある。


そして、明治以降、深川区となり、戦後、
亀戸など東側の城東区と一緒になり、今の江東区
なっている。


隅田川の東岸、海側。


皆さんは深川といえば、なにを思い浮かべるであろうか。
深川芸者、木場、、このあたりが、一般的かもしれない。


深川芸者は、今の門前仲町が中心。
木場は、文字通り、東西線の木場で、今は
東京都現代美術館がある、木場公園になっている。


どちらも今回よりは、南の区域。


今回の森下周辺は、深川でも、北西の端であると同時に
深川で、もっとも古い地域。


時は、家康が秀吉によって、関東に移封され
江戸に本拠を定めた頃。


江戸城の建設、城下町の建設が隅田川の向こう側で
始まる。


この頃はまだ、この深川の多くはまだ、海と、
海岸に葦の広がる、低湿地であった。


そこに、関西から干拓に入った者が数名おり、
その内の一人が、深川八郎衛門といった。
この人が、このあたりの草分け地主で、深川の
名前の由来になっている。


その頃の海岸線は、ほぼ、この小名木川あたりでは
ないか、と、いわれている。


北から埋立てを始め、この小名木川は、埋立てと
同時に、南側に堤を作り、海岸と切り離し、
内側を堀にした。


地図をご覧になればわかるが、小名木川
真っ直ぐに、東に向かっている。


どこまでいくのかというと、中川まで。
(今は、中川は旧中川と呼ばれている。)


この小名木川は、本所深川の堀の中でも
この開拓、干拓が始められた最も初期にある目的のために
作られたものであった。

その目的は、実は、行徳から塩を運ぶためであった。


行徳は、江戸時代以前から、塩の産地として有名で
これから、数万人の家臣や町人を住まわせる城下町を
築いていこうという幕府にとっては、塩の確保は
是非ともしておかなければならないことであった、
のである。


そして、小名木川は、行徳の塩だけでなく、北へ上がって、
松戸、野田、その他、関東各地からの様々物資を
江戸に運ぶ、水の大動脈の
起点になっていったのである。




といった、ところで、また明日。