浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き2月 その5

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


NHK文化センター、断腸亭の『池波正太郎と下町歩き』


新年度4月スタート。募集中!

NHK文化センター
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




グーグルマップ。





より大きな地図で 断腸亭の池波正太郎と下町歩き2月 築地〜銀座 を表示

ルートマップ





江戸の地図



昨日は、佃と、石川島のことなど。



さて。


佃大橋に上がって、対岸を目指す。


この佃大橋は橋の位置も高く、見晴らしがよい。
対岸右手側には、亀島川の水門が見える。


東京の掘割というのは、昔は、水郷とも、東洋のヴェニスとも
いわれたほどに、たくさんあったのだが、汚染などもあり、
今は、とんどが埋められている。
このあたりでは、この亀島川はだけは残っており、
新川と茅場町の間を通って、日本橋川に通じている。


この佃大橋は、隅田川を斜めに渡しているので、
隅田川の他の橋よりも、長さがある。


この橋ができたのは、1964年(昭和39年)。
東京オリンピックを前にして、急ピッチで、造られたという。


この橋ができて、むろん、佃の渡しは、廃止された。


対岸に渡り切り、西詰を下へ降りる。
この、降りたところにも、佃島渡船の碑がある。


佃の渡し、と、いうと、落語、佃祭を思い出す。


江戸市中の大店の旦那が、佃祭の見物に行き、
祭が終わって、その日の最後の舟に乗って、
帰ろうとする。


すると、呼び止める者があり、
その日のうちに帰りたかったのだが、仕方なく、
戻る。実はこの呼び止めた女は、過去にこの旦那に
命を救われたのであった。


その女の家で、その亭主とともに、呑みながら
話をしていると、乗るはずであった舟が、祭見物の人が
あまりに多く乗り、途中で沈んでしまった、という知らせが届く。


呼び止められずに、乗っていたら、お陀仏であった。
旦那は、命を救われたことになる、、、。


まあ、そんな噺。


実は、江戸の頃は、制度としての渡し船はなく、
佃渡船ができたのは、石川島に造船所などができて、
働きに行く人ができた、明治以降のこと。


この噺は、時代は江戸期の設定だと思われるが、
祭の最中は、佃の漁師が臨時に舟を出していた、
ということになっている。
まあ、そんなこともあったのであろう。


ただし、こうした、渡船が、多くの人が乗ったため、
途中で沈んでしまう、という事故は、やはり実際に、
まま、あったようである。


さて。


その渡船の碑から、堤防を越えて、河原の
テラスへ降り、下流に向かって、歩く。


海側には、向こうに、勝鬨橋が見え、
右側には、聖路加の2本のタワーがそびえている。


聖路加側には、大きく広い階段で上がれるように
なっている。


聖路加タワー、聖路加国際病院
(聖路加は、ロカではなく、ルカが正しい。)


前身は1874年(明治7年)居留地内に英国人宣教医師により
作られた築地病院といわれる。


1902年(明治35年聖公会の宣教医師により買い取られ
聖路加国際病院となる。
震災で倒壊、1928年(昭和2年)再建され、
再開発後の現在も残されているチャペルと旧病棟は当時のもの。
(都歴史的建造物)


戦災を免れ、GHQにより接収されている。


築地、明石町界隈は、焼け残ったのだが、
それは、このイギリス系の聖路加があったから
というが、まあ、それは俗説、で、あろう。
東京大空襲などの米軍の証言などが出てきているが、
そうとういい加減に焼夷弾を落としていたようである。


1997年(平成9年)、再開発終了。
現在は旧病棟、1992年竣工の新病棟、オフィス、
シニア向け賃貸マンション聖路加レジデンス、
ホテルなどが入るタワーの三区画に分かれ、
この界隈のランドマークになっている。
99歳の日野原医師は国際病院理事長。
先進的な情報開示など国内医療機関のなかでは評価は高い。


まあ、そんな聖路加。


隅田川テラスから、階段を上がると、左側に
アメリカ公使館跡の、モニュメントがある。


この明石町界隈は、明治に入り、いわゆる“開市場”として
外国人に開放され、築地外国人居留地、と呼ばれたところ。


開市場、というのは、あまり聞きなれない言葉だが、
ペリー来航によって、幕府は開国、治外法権のある、
日米修好通商条約など(いわゆる、安政条約)を結んだ。
これに開港と、開市があり、開港は港を開くことで、
横浜や神戸など。開市、というのは、町を開く、で、
それも約束をしていたのである。


江戸開市、は、幕府は、面倒なのもあり、また、
実情として、それどころではなかった、
ということだろうで、ずるずると、江戸の開市は、
先延ばしにしていた。


実際に開市されたのは、新政府になった明治になってから。


開市はされたものの、実際にここに移ってきたのは、
期待をしていた、貿易商などではなく、病院や、教育者、
キリスト教の伝道師で、その関係で青山学院や立教学院
明治学院、女子聖学院の発祥地となっている。


また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が
設置されたのであった。


この居留地は1899年の治外法権撤廃で廃止されている。





と、いったところで、また明日。