浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

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江戸博・特別展『日本橋』その2

dancyotei2012-07-18


さて、引き続き、江戸博の『日本橋』。



広重の東海道五十三次日本橋の絵、高札場から
晒し場の話に脱線してしまった。



絵の話であった。


この展示で指摘されていたのは、
日本橋を描いた絵には、三つの定式があったという。


江戸でも最も栄えていた日本橋界隈。
かつ、ランドマークとして耳目を惹く場所。
従って、まったく多くの浮世絵に描かれたし、広重なども
これ以外にも数多く日本橋を描いている。
その日本橋を描くには落とせないものが三つ。
その一つが、高札場。他の誰の絵にも高札場は描かれていた。


あとの二つは?


昨日出した広重の『東海道日本橋』にはあとの二つは、
実は、描かれていない。


そして、これには描かれている。






これは、北斎の、富嶽三六景のうちの日本橋


そして、もう一つ。





これはまた、広重。


「東都名所年中行事 四月 日本橋かつお」 というもの。


この二作品には、あとの二つが描かれている。
なにかおわかりになろうか。(先の高札場は描かれていないが。)


広重の方が、背後に大きく描かれている。


そう。


お城と、富士山。


江戸のランドマークとしての日本橋には、
文字通り江戸の中心でこの国の統治者であった将軍の住む、
江戸城は描き入れるべきものであった。


また富士山。


現代以上に富士山は江戸の人々にとって
身近な存在であり、お目出度いものであり、富士講などの
信仰の対象でもあった。。
江戸を象徴する絵には、描くべきもの、であったのであろう。


江戸城も富士山もともに当時日本橋から見えた、
と、いう。


今、日本橋川日本橋の一つ上流の一石橋で右に向きを変え
外濠の名残となっている。


江戸の頃。





一石橋で外濠と直進する道三濠との十字路になっていたのである。


この道三濠を真っ直ぐ行くと、内濠になり、さらに直進すると、
大手門前になる。
(この地図を見ても日本橋から江戸城はよく見えたことが
想像できよう。)


逆に江戸城大手門から真っ直ぐ濠を進むと、日本橋にあたる。
大手門に最も近い町人の住む町といってよいだろう。
江戸城日本橋の関係というのは、これでお分かりになろう。


まさに江戸城お膝元の橋であり、お膝もとの日本橋界隈は
家康が城下町を建設した草分けからの町で、この界隈は
幕府や将軍家と関係の深い商人や町人が最初から住んでいた
のである。


名実共に、日本橋という橋と、この周辺の町は、
江戸一番の中心地であったのである。
(このあたりも、展示ではなく私見。)


さて、展示に戻る。


先ほどの、広重の『日本橋かつお』に戻る。


日本橋といえば、もう一つ。


そう。


魚河岸。


現代の感覚では、日本橋で初がつお?、と、思われよう。


だが、江戸期から大正時代の関東大震災後、
今の築地に引越すまで、この日本橋の北河岸、東側
江戸橋までの間、狭い範囲だが、ここに魚河岸が
あった。


今、築地という名前から、鮨がうまそう、という
連想が働くが、大正時代までは、日本橋といえば、
魚がうまそう、という連想が働いていたのであろう。


なぜこんな中心部に魚河岸ができたのか。
ちょっと疑問ではある。
魚河岸は日本橋だが、青物は神田。
もう少し離れたところでもよかったのではなかろうか、と。


魚河岸の成立は、家康によって江戸前の漁を独占的に
認められた、佃島の漁師達、という。


この日本橋川を下り、亀島川(越前掘)に右折し、
霊願島(現新川)で、出口は江戸湊。
そして、その目の前は、もう佃島になる。


佃島の漁師達は独占的な漁業権を得た代わりに、
江戸城への魚の納入を義務付けられており、
その残りを許しを得て販売したのが、魚河岸の始まり。


江戸湾から江戸城へ真っ直ぐ魚を運ぶには、やはり
この日本橋川をさかのぼり、先ほどの道三濠を通る。
その帰りに魚市を開くには、日本橋は好都合である。
幕府から保護されていた佃の漁師達、ここの中心地での魚市の
開催も許可された。そんなところではなかろうか。
(またも展示内容でなく、私見、で、ある。)


次の絵はこれ。





北斎の作品。
よく見ないと、なんだかわからなかろう。


これも北斎の名作シリーズ、富嶽三十六景のうちの、
「江都駿河町三井見世略図」というもの。


江戸の地図をまたご覧いただきたい。


日本橋の北側に駿河町というのを見つけられる、
と、思われる。これがこの絵の駿河町。


この界隈、今の町割りとほぼ変わっていないので
お分かりいただけるのではあるまいか。


今、ここになにがあるか。
そう、三越、で、ある。


もうお分かりであろう。


絵の看板には、井桁に三、現金無掛値(げんきんかけねなし)、
呉服の三井越後屋


後の、三井財閥三越であり、三井物産であり
三井銀行


しかし、この絵の構図はちょっとヘン。
店先を描かず、店の上部、看板と屋根のみ。
その正面にはこれも石垣だけ描き、緑があって、
その向こうが富士山。正月なのか、空には凧が上がっている。


富士を描くことが目的でこうなったのか。
ちょっと不思議、ではある。


この日本橋界隈、三井以外にも呉服店は多かった。
日本橋の京橋側には、白木屋(のち、東急百貨店で、今はコレド)。


そして、一石橋の隣にある呉服橋(御門)。
町名もここは呉服町。
かの、大奥を巻き込む大事件、絵島生島事件に連座した
後藤縫殿助(ごとうぬいのすけ)家はこの呉服橋御門の前にあり
幕府の呉服所を勤めていた、大御用商人。


日本橋はやはり、江戸でも呉服を中心に、
超一流の大店がひしめいていた街、と、いってよかろう。


日本橋界隈、こんなところ、で、ある。




もう少しあるので、明日につづく。





江戸博