浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き・八丁堀・その4

dancyotei2011-05-25



八丁堀から、亀島川を高橋で渡って、霊巌島、


今の新川まできた。




江戸の地図。






路地を曲がって、緑のあるちょっとした空間。
これが、於岩稲荷(おいわいなり)田宮神社。


いわれないとわからないかもしれない。
入り口の石段右に於岩稲荷と刻んであるので
かろうじて、わかる。


参道はくの字に曲がり、お社は左手奥にある。


このお稲荷さん、お岩さん、なのであるが、
お岩さんは、どなたもご存知、では、あろう。


お岩さんは、四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」。
日本の怪談の中では、最も知られたもの、で、あろう。


その主人公お岩の伝承を持つ神社。


お岩稲荷の文書によれば、四谷に住む武士・田宮又左右衛門の娘、
お岩が浪人の伊右衛門を婿にとったが、伊右衛門が心変わりして
一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、
その後田宮家で変異が相次いだため、
田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたという。


田宮家に伝わる話では、お岩は貞女で夫婦仲も睦まじかったとある。
このことから、田宮家ゆかりの女性の失踪事件が、
怪談として改変されたのではないかともいう。


於岩稲荷は、1717年享保2年)に田宮家、お岩の住居であった
四谷の左門町に祀られた。


その後、田宮家の移転とともに、1879年(明治12年)に
現在地(当時の越前堀1−4)に移転した。
戦後、旧地、四谷左門町にも再建されており、
今は、於岩稲荷は両方にある。


芝居になっている関係で、役者や芸妓の参詣が多く、
明治から大正にかけて、門前に茶店も出きて
おおいに、にぎわったという。


お岩さんの歌舞伎芝居である、東海道四谷怪談、は、
現代でも時折上演されている。
ご覧になったことがある方もあるかもしれない。


四代目鶴屋南北作で、全五幕。
1825 年(文政8年)中村座初演。


実のところ、私は、怪談物というものが、まったくの
苦手。


落語でも怪談もの、圓朝作の牡丹燈籠、真景累ヶ淵など、
名作はあるが、きちんと聞いていはいない。


白状をするが、怖いものは、からっきしダメ、
なのである。
男のくせに、と、いわれそうだが、怖いものはこわいので、
しかたがない。(男の方が、こういうところは、意気地がないもの
かもしれない。)


しかし、日本の怪談というのは、世界で最も怖い、
のではなかろうか。


欧米のスプラッタームービーなど、足元ににも
及ばなかろう。


現代でも、リング、らせん、などある。


こんなのも怖くて、私はまったくフォローしていないので、
語ることはできないが、これらも、世界的にも評価も高い
と聞いたことがある。
(なぜ、日本人の作る怪談は怖いのであろうか。)


ともあれ。


そんな、お岩さん縁(ゆかり)のこの境内にも、
あまり長い時間いたくないというのが本音、
ではある。
(そうそう。私が、お墓、墓地があまり好きではないのは、
考えてみれば、同じような理由である。
お墓も気味がわるい、、のである。)


しかし、歌舞伎芝居としての、あるいは、
文芸作品としての、東海道四谷怪談と、
作者である、鶴屋南北には興味はある。
一度きちんと、芝居も観たいし、台本も
読んでみたい。
(なんでも、この東海道四谷怪談は、江戸の街が、
空間としてきちんと描かれているという。)


於岩稲荷の境内を後にし、隅田川側へ出てくる。


出たところに、住友のビルがある。
これを右に曲がると、左側に、中央大橋が見えてくる。


中央大橋は、新川と石川島を結んでいる大きな橋である。


また、この通りも、堀の跡、ではある。
今来た、於岩稲荷側が、旧松平越前守屋敷跡。
渡った南側が、御船手組屋敷跡、で、ある。
渡って、橋の方に歩き、袂(たもと)の右側から、堤防にあがる。


あがったところに、あるのが日本水準原点
なんでも、日本の標高の原点。
つまり、海抜0m地点は、ここの水面の高さの
平均から定めたという。


今の水準点は、もはやここではないようだが、
今でも、この、土手をずっといった、突端には、大きな箱に
足が付いたような形をしている、海水面の高さ、
潮位、を図る施設がある。


さて、そして『幕府御船手組向井左近衛将監屋敷跡』。


江戸の地図を見ていただきたい。


越前掘が、隅田川にぶつかるところには、
御船手向井将監という文字が見えると思う。
(また、将監河岸という文字も書き加えた。)


この、亀島川(越前掘)が隅田川に注ぐ左手の突端には、
江戸幕府の御船手組屋敷が置かれていた。


御船手組とは、同心30名、水主(すいしゅ、かこ)84名で、
戦時には幕府の水軍であり平時は江戸湾の警備や
軍船の管理を行なっていた。
水主とは、今でいう、水夫、船を操縦する際の
下働きのことである。


御船手組の初代の頭である、向井左近衛将監忠勝
(むかいさこんのしょうげんただかつ)は
徳川秀忠に従い徳川水軍を率いて、大阪城攻めに参加、
豊臣方の水軍を破り、大坂湾の制海権を抑えた。


その後、この地に屋敷を拝領し、向井家は9代に渡って、
幕末まで江戸幕府の旗本であり御船手組の頭、
御船手奉行を世襲した。


向井将監屋敷には、御船手組の同心屋敷をはじめ、
隅田川の突端には行き交う船を監視する、
船見番所が置かれていた。
(船番所はここだけでなく、永代橋、深川万年橋、
小名木川の中川口、猿江など主として川に置かれ、
江戸を出入りする物資、商品流通の監視を行なっていた。)


町奉行所の同心は、あまた捕物帳になっているし、
火附盗賊改の同心は、鬼平犯科帳になっている。


御船手組というのは、こうした時代小説に
なっていないようである。


むろん、平和な江戸期には、水軍など必要はないし、
行きかう舟の積荷の検査などでは、たいしたドラマも
生まれそうにないのか。


だがいずれ、彼らがどんなことをしていたのか、
研究はあるはずで、戦国の向井水軍とともに、
一度、調べてみようかしら。




と、いったところで、長くなった。


今日はこのへんで。
また明日。