浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



池波正太郎と下町歩き10月 その6


『講座』の10月。
引続き、増上寺





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今は、プリンスの敷地にある、台徳院殿・秀忠霊廟の惣門を後にし、
日比谷通りを引き返し、増上寺の三門、三解脱門も越えて、
今度は、増上寺の北隣、東京プリンスの敷地。


日比谷通りの舗道から見えるところに、
もう一つの将軍家霊廟焼残りがある。


有章院殿、7代将軍家継霊廟の二天門。
重要文化財


こちらは、特段きれいに修復されている状態ではない。


プリンスの駐車場の片隅。
皆さんに説明しながら見ていたら、大きなねずみが、
門の石段の上を左から右に走っていった。



やっぱりこれも、一つ、雑草に埋もれ、
日比谷通りの排気ガスにさらされて、、、。


まあ、これが“時代”というもの、であろう。



ともあれ、見るものは、あと一つ。


駐車場の角を左に曲がって、
しばらく行くと、左側。
やっぱり、向うは、プリンスの駐車場。


これは、増上寺御成門


元は、今の御成門交差点にあった門。
むろん、将軍様の御成りになる時に通る門なので
この名がある。


明治になり、増上寺が縮小され、この、東京プリンスの
敷地までになった時に、ここへ移された。


(参考に書いておくが、これ以外にも焼残りはある。
だが、この周辺にはない。所沢の西武球場の前に
西武鉄道がお寺を作り、そこに台徳院殿霊廟の勅額門、
丁字門、御成門、が、移築されている。)



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それにしても、増上寺の歴史をみてきて、
感じるのは、寂しさ以上に、悲しさ。


この文章は、歩いた後、あらためて、思い出して
書いているわけだが、歩いているとき以上に、
悲しくなってくる。


増上寺、あるいは、江戸三百年って、こんなことに
なっていたんだ、ということ。



今、考えれば、焼け跡にホテルを建てないで、
なんで霊廟を再建しようとは考えなかったのか?。


しかしまあ、これはいっても仕方がないこと。


昭和33年当時は、高度成長が始まった頃であろうか。
オリンピックに向かって、東京はひた走っていた。
日本橋の上には首都高を通し、春の小川の
渋谷川はふたをし、暗渠にしていった頃である。


これが東京の歴史、なのである。



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と、いうことで、見るものは、ほぼ終了。


皆様もだいぶお疲れの様子。
だが、東麻布の野田岩まで、もう一頑張り。
(実際のところ、私は、下見で何日かここへきて、
歩きまわっているので、慣れてしまっていた。)


ここからは道なりに、東京プリンスの裏へ回る。
このあたり、道の向こう側、西側は公園で、木が鬱蒼(うっそう)と
茂っている。
プリンスの真裏(まうら)をすぎて、交差点がある。
もう東京タワーのすぐ下。見上げるように見える。


向う側へ渡る。


左側はもみじ谷、という名前の公園。
少しいくと、左側に東京タワー。


東京タワーなぞ、子供の頃に数回登ったきりで、
最近はとんと、ご無沙汰。


今年に入って、スカイツリーに333mを越され、
日本一の座を明け渡し、今は、最後のお勤めまで
頑張っているところ。
この姿を見ていると、なんとなく、
健気(けなげ)に思えてくる。


左に曲がり、東京タワーを右に見て、
左にカーブし、今度は急な坂を下りる。


坂の途中、料亭があるがこれを右に入る。
突き当たって、右。すぐに左。


と、桜田通りに出る。
野田岩までは、もうすぐ。


渡って右に、桜田通りを上がって、、、。
ふう、野田岩到着。


名乗って、皆さん、二階へ。


普通は、区切って使っている部屋を、
ぶち抜いて、大広間にしている。


先日、ここへは、下見を兼ねて、内儀(かみ)さんと来て、

詳しく書いている
ので、よいであろう。



うな重





お店の説明では、半分は、天然もの、の、ようである。
先日のものも、そうでないかと、思ったが、
やはりそのようである。
予想通り、厚みのある方が、天然もの。


ビールがうまいし、池波先生が「丁寧な仕事」、と、評された
うな重も、うまい。


皆さん、お疲れ様でした。
(私も疲れた。)


また、来月!。





麻布・五代目野田岩
電話番号:03-3583-7852
住所: 東京都港区東麻布1丁目5−4