『講座』の10月。
昨日は増上寺と、増上寺にあった、壮大な徳川将軍家霊廟のこと。
そして、それが第二次大戦の空襲で灰燼に帰してしまったことなどを書いた。
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そして、1958年(昭和33年)になって発掘され、学術調査がされた
とも書いた。
これは、報告書にもなっている。
その記録なども少し読んでみた。
葬られている将軍、正室、側室など、一人を除いて、
皆、土葬。
と、その火葬の一人とは?
崇源院殿。
誰かといえば、来年のNHKの大河ドラマの主役
そう、2代将軍秀忠の正室、江。
信長の妹お市と、浅井長政の三女。長姉は秀吉の側室淀殿。
なぜ、この人だけ火葬されたのか。理由は、、、不明。
それから、一人を除いて、皆、座棺であったという。
座棺というのは、いわゆる丸い早桶(はやおけ)。
(早桶は、座った状態で納棺される。)
むろん、漆塗りなどの贅沢なものであったのだろうが、
庶民同様の座棺だったのである。
で、その例外の一人は?
静寛院和宮。
公武合体の使命を帯びて、将軍家に降嫁(こうか)した、
あの、皇女和宮だけは、木製の寝棺であったという。
和宮様が亡くなったのは、明治になってからだが、
それが理由か、あるいは皇室は江戸の頃から寝棺だったのか、
そこまでは、資料をみた限りではわからなかった。
興味深いので、葬られ方を書いておきたい。
二代将軍、秀忠、台徳院殿。
秀忠は、黒塗り、円型の座棺で、輿(こし)に乗せたまま
葬られていたという。
中の遺体は将軍の正装。座布団を三枚重ねにし、棺の天井、
左右の壁にも小さな布団が取り付けられていた。
副葬品には棺の外に鉄砲、弾丸、薬袋など。
棺の中には大刀は左手後ろに柄(つか)を前下にして立てかけ、
すぐに抜ける状態であったという。
そしてもう一人。
ただ一人の寝棺、静寛院和宮。
副葬品はなにもなく、ただ、左手掌下に置かれた、
一枚のガラス板だけであった。当初、鏡であると思われたが、
詳細調査すると夫家茂の写真原版であったという。
明治の世になり、皇室へ戻った和宮。
しかし、将軍家霊廟の夫家茂の隣に葬ってほしいというのも、
彼女の希望であったという。
これ、ちょっと、いい話ではないか。
発掘されたお骨は、今は、この時新たに作られた、
往年とは比べ物にならない広さの、
新しい徳川家霊廟にまとめて葬られている。
その、徳川家霊廟は増上寺大殿(本堂)の右奥にある。
門は有章院殿(家宣)の宝塔(墓)の前に建てられていた
旧国宝、青銅の釘抜門(くぎぬきもん)が使われている。
残念ながら、通常は一般公開はしていない。
(ただし、年間何日か特別公開日が設けられており拝観は可能。
上記、増上寺WEBページなどで確認できる。)
釘抜門は左右の扉に大きな三つ葉葵の紋が五つずつ彫り込まれ、
それなりの風格はあるが、やはり、往年の権現造りで
壮麗な、といった、形容詞が付いていた霊廟、御霊屋の
伽藍から比べると、いかにも、さびしい。
さて。
将軍家の霊廟建築群、増上寺関連の建物もほとんどが
焼けてしまったのだが、残ったものも、いくつかある。
最初に触れた、増上寺三門、三解脱門。
これは、1622年(元和8年)建立。
この年代は東京都で最古の建築物であるという。
重要文化財。
いつの修復かはわからないが、今は、朱で
きれいに塗られている、見たところ立派な門。
この他、増上寺境内には、め組の供養塔などもある。
本殿にはトイレもあるので、ここで少し休憩。
お参りされる方は、どうぞ。
増上寺境内の焼残りはこの他に、経堂。
それから、三門の向かって左手にある黒門。
これらを見てから、一度外へ出て、
日比谷通りを南、プリンスタワーの敷地へ向かう。
黒門のすぐ南がプリンスタワーの入り口なっているが、
ここにも霊廟の焼残りがある。
なにかというと、台徳院殿霊廟・惣門。
これも重要文化財。
台徳院殿なので、秀忠。
その霊廟群の表門である。
広いプリンスへ入っていく道路の真ん中に、
ポツンと、大きな門だけが建っている。
これもきれいに修復されているが、やっぱり、
一人だけ取り残されたようで、さびしい。
ここの地形は、東側から西に向かって、台地になっている。
このプリンスタワーの広い一帯が南御霊屋(おたまや)と呼ばれていた。
この地形の起伏に合わせて、秀忠、江の霊廟群が巧みに
配置されていた、と、いう。
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台徳院殿惣門は、今は、日比谷通りからすぐのところにあるが、
焼ける前は、もう少し奥にあったようである。
霊廟への参道は、ここから真っ直ぐに西に向かって上がり
勅額門、水盤舎、中門があり、権現造りの御霊屋、拝殿が
あったようである。
(崇源院殿・江の御霊屋はこの北側に並んであった。)
御霊屋の位置は、今のプリンスの敷地では円型の広場があるが、
この手前あたりか。
そして、実際の墓は奥の院といって、南に道が続き
その先にあった。ちょうど、今、プリンスのタワーが建っている
あたりではあるまいか。
秀忠の墓は屋外ではなく、この奥の院の本殿のさらに奥、
内陣という建物の中、つまり、屋内にあった。
むろん、それらはすべて豪華で壮麗華麗な
彫刻や細工の建築であったのであろう。
さて。
今の台徳院殿・秀忠の霊廟惣門から、さらに南にいくと、
芝生の公園をはさんで、芝東照宮がある。
(ここは、江戸の頃には安国殿という家康を祀ったもの
であったが、明治以降の神仏分離で、東照宮として独立している。)
が、そこまでいくと、時間もなくなり、
皆さんもお疲れになるので、引き返し、今度は北へ向かう。
と、いったところで、また明日。