浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



その14 人情噺2.文七元結、紺屋高尾

さて、前回は人情噺の大看板、芝濱、さらに談志家元のことを
思い入れ込みで書いた。
今日は文七元結(ぶんしちもっとい)と、
紺屋高尾(こうやたかお)について。

文七元結


さて、二番目はこの噺である。
筆者、なにを隠そう、この噺、好きかも知れない。


それもあり、付随して、解説したい部分がでてきてしまった。
噺そのものからは少しずれるが、落語案内、江戸案内、ということにも
なると思い、書いてみたい。


この噺も人気のある噺であろう。誰かというと、志ん生である。
(談志家元も、おすすめである。)
芝濱と同様に、圓朝作。
圓朝という人、怪談噺なども含めて、作品は多いのであるが、
今でも人気のある人情噺を残している、というのは、やはり、
偉大な作家である。)
またこれも、芝居(歌舞伎)としても演じられる。


元結とは、モトユイ、と、読むことの方が多い。
今でも、相撲取りなどは使っているが、昔、ちょん髷(まげ)を結う際に
髪を縛るのに使った、紙を細く、より合せた紐(ひも)のようなもの、である。
熨斗(のし)袋(結婚式のご祝儀などを入れる袋)の水引き
(金や銀の紙の紐)のようなもの、と、いえば、わかりやすいか。


ストーリー


左官の長兵衛、ご多分に漏れず、金がない。
芝濱の魚屋は原因は、酒であるが、長兵衛は、※1.博打(ばくち)である。
みんな質屋に置かれ、内儀さんは着るものもない。
違うのは、娘がいること。


ある日、長兵衛は、例によって、博打で負け、
着物も取られ、※2.尻切り半纏一つの、
スッテンテンになって、帰ってくる。
娘、おひさ、の姿が見えないと、内儀さんが騒いでいる。
近所の人なども、捜してくれている、と、いう。


と、そこへ、吉原の佐野槌(さのづち)、という妓楼(ぎろう。遊女屋のこと。)の
若い者が訪ねてくる。
その、捜していた、娘が、来ている、というのである。
佐野槌は、長兵衛の出入り、であった。
(客として出入りをしているのではなく、左官の職人としての
出入り先である。念のため。)


出入りのお店であるため、さすがに、尻切り半纏姿では行けない。
内儀さんの着物を無理やり脱がせて、女物の着物であるが、
これを着、内儀さんには代わりに自分の半纏を着せ、
佐野槌へ、駆けつける。
(服装のことを、ナリ(形)という言い方をする。
これも今は使わなくなった言葉であろう。
佐野槌の若い者にも長兵衛は
「たいそうな、ナリしてんね・・・。この辺じゃ、そんなのが早ってんのかい」
などと、からかわれている。)


この部分、とてつもなく、可笑しいのである。
これは、着物というものを知らないとほとんど、
その可笑しさはわからないと、思われる。


ご存知の方には、不要なものだが、入門という意味で、
着物をまったく知らない方向けに、ちょっと、説明をしてみたい。
(筆者も爺さん婆さんがそばにいたとはいえ、サラリーマンの家庭で育った。
落語に興味を持って、自分で演じようと思い、着物を自分で着たい
と、思うまで、まったく着物に関する知識はなく、従って、
着物に関する言葉も知らなかったのである。)


着物の袖(そで)は洋服のように、腕に沿って、細くはなっていない。
袂(たもと。袖の下部分。)と、いって、下側に長くなっている。
若い女性の晴れ着は、振袖(ふりそで)というが、これはその
袂を、ずーっと、長くしたものである。
(ちなみに、筒袖(つつそで)といって、袂がない着物もある。
職人など、袂があると、動きずらい、作業がしずらい、ことがある。
こうした場合、筒袖を、着る。)


そして、女物の着物は八つ口といって、袂の脇側が切れている。
女物の着物を、男が着る、これは、見た目にもすぐわかるものである。
もちろん、柄(がら)も女物であろうし、寸法も違うことであろう。
談志家元は、噺の中で、腕を組んで見せ、女物の袖を見えないように
隠している仕草を入れている。


また、内儀さんは、代わりに、尻切り半纏を着せられる、
ということになるのである。
男の、尻切り半纏姿、と、いえば、現代であれば、半纏を着た、
祭りのふんどし姿を想像していただければ、近かろう。
尻が出るほどの、丈の短い、半纏、である。


これを、女性が着る。着る、なんという格好ではない。
女性の場合、通常は、腰から下、下半身には、腰巻という、
紐のついた布を巻く。内儀さんは、腰巻すら質入し、
素肌に半纏を着て、文字通りほとんど、はだか、で、ある。


やはり、この噺、人情噺であるが、この部分、
存分に、落語らしい、可笑しい部分である。
やはり、志ん生らしい演出かも知れない。


さて、吉原の佐野槌に来た、長兵衛。
かねてより、出入りの店である。
顔見知りの女将の前へ出る。と、捜していた、娘のおひさがいる。
叱り、連れて帰ろうとするが、女将が、いう。


この娘は自分から、この店に来た。
家は、お父っつぁんが、博打に狂って、滅茶苦茶です。
私のような者でも、こちらへくると、お金になるって、聞きました。
どうか、女将さんから、お父っつぁんにお金を渡して、
意見をしてやってほしい、と、いうのだと。


一言(いちごん)もない、長兵衛。


これから、女将の説教になる。これが、なかなか、よいのである。
ここに書いても、充分に伝わらぬと、思われる。
志ん生師、もしくは、談志家元のものを、是非とも、聞いていただきたい。



十両あれば、なんとかなるの?じゃあ、三十両、貸してあげる。
何年で返せるの?二年?三年?。
わかった。じゃ、三年、待ってあげる。
その三年は、この娘(こ)は店には出さないで
私の身の回りのことをやってもらう。
その代わり、三年が、少しでも過ぎたり、お前さんの
悪い病が出た、って聞いたら、店へ出す。いい?



十両を受け取り、娘に別れを告げ、吉原を後にする。
大門を出て見返り柳。この場面もよい。
様々なことが、頭に去来する。


とぼとぼ歩いて、浅草、吾妻橋までくる。
と、身投げ、である。当然であるが、長兵衛はとめる。
(ちなみに、身投げといえば、吾妻橋に決まっていた。)


身投げをしようとしていたのは、商家の手代(てだい)風の若者。
わけを聞いてみると、掛けを取ってきた、店の金、を落とした、と、いう。
その額が、“三十両”。


暗い吾妻橋の上。
悩む、長兵衛。


、、、、。


長兵衛は、さっきもらった、三十両をやってしまう。



さて、場面代わって、その手代・文七の店(小間物問屋)。
夜になっても、帰ってこない。心配する店。


そこへひょっこり、文七が帰ってくる。
掛けを取ってきた、といって、三十両を出す。


しかし、この三十両、実際には、落としたのではなく、
掛けを取った先に、忘れてきてしまい、
そこから、既に、届いていたのであった。
店の旦那が、わけを聞くと、女の着物を着たヘンな男に
もらったと、いう。
その金は、娘を吉原に置いた形(かた)に、借りた金だという。
さあ、大変だ!!。


またまた、場面転換。
翌朝の長兵衛の長屋である。


身投げをしようとした、見も知らぬ男に、
娘の身代金を渡した、という、長兵衛。
そんなことが信じられようか?
泣き叫ぶ、内儀さん。
また、使っちまったんだろ!!
これが、一晩中である。


激しい言い合い、である。
このときの二人のナリは、長兵衛が出掛けたときのまま。
(泣き笑いである。)


そこへ、文七を連れた、先ほどの、店の旦那が訪ねてくる。
文七の身投げを助けてくれた礼を述べ、わけを話す。
嘘でないことが証明された、長兵衛。
(内儀さんは、先の、出られない格好なので、衝立のかげにいる。)


さらに、長屋の前に、駕籠(かご)が着き、
その小間物問屋の旦那に身受けをされ(30両を佐野槌に返して)、
昨日とはうって変わって、きれいに着飾らせてもらった、娘・おひさが現れる。
我慢できず、飛び出す内儀さん、抱き合う、親子三人。
(ここも、泣き笑い。)


これから、文七とおひさは、夫婦となり、小間物屋を開き、
そこで売り出した元結が、評判になり、文七元結と呼ばれ、たという。
(下げはない。)


この噺、芝濱よりも、好きである。


作品として、どうなのか。
あなたが長兵衛であったら、自分の娘を吉原に置いて作った金を、
見も知らない男にやってしまう、であろうか。
本当は、やってみたい。長兵衛は理想形であろうか。
キップのよい、宵越(よいご)しの銭は持たねえ、という、
世にも珍しい生き物、江戸っ子を描いた話、と、いうことであろうか。


正直のところ、よくわからない。と、いうよりは、
そんなことは、どっちでもよい。
好きな噺である。



※1.博打:
江戸の頃も、博打はもちろん、非合法である。
しかし、古いヤクザ映画なんぞにもよく登場するが、
サイコロで、丁半(チョウハン)、なんぞ、いっている、あれ、である。
江戸時代にも、なかば公然とやられていたのも事実である。
落語にも博打の登場する噺は、少なくない。
また、この文七元結のように博打に狂う者も、よく登場する。


江戸府の中では、外様大名下屋敷などが、多く、博打場になった。


文七元結、の中でも
「細川の屋敷で取られた・・・。」
などという、セリフがある。
この細川とは、肥後熊本の細川藩である。


大名の屋敷は、大きな大名になると、藩主が主にいる、上屋敷の他に
中屋敷下屋敷など、三つも四つもあった。
藩主がほとんどくることもない、中屋敷下屋敷は、
留守番をしている、藩士が少しいるだけで、
ほとんど人はいないところも、多かった。


また、大名屋敷には、中間(ちゅうげん)、という武士ではない
雑用をする、奉公人が、いた。
大名行列にも出てくる、奴(やっこ)さんがこれである。


江戸時代も時が経つと、この中間は、きつい武家奉公が嫌われ
なり手がいなくなるとともに、当時の人材紹介所である、
口入屋(こちいれや)から入れるようになっていった。
この口入屋などから入れる中間は、渡り中間、と呼ばれ
大方は、無頼(ぶらい)の輩(やから)であった。
彼らは、人の少ないことをいいことに、下屋敷などで、
博打場を開いていたのである。


ことに、先の細川など、外様大名の屋鋪は、幕府・町奉行所も
そうそう踏み込むことができず、やり放題、でもあった。



※2.尻切り半纏:スッテンテンになった者に、博打場で
貸してくれる、短い半纏。


紺屋高尾


人情噺、次は、紺屋高尾、である。
落語をまったく知らない人でも、
ひょっとすると聞いたことがある噺かも知れない。


純愛の噺である。
女性などは入りやすい噺かも知れない。
この噺は三遊亭円生であろうか。


ほぼ、同工の噺で、幾代餅(いくよもち)、というのもある。
片や、紺屋の職人と高尾太夫
片や、搗き米屋の職人と幾代太夫という違いだけである。

しかし、この、紺屋高尾、と幾夜餅では、ちょっとした区別がある。
流派による違いである。
ちょっと、紺屋高尾からは、脱線、するが、ここで、
前にも触れたが、ついでである。
ここで、落語の世界にもある、流派について少し書いてみたい。

三遊派柳派、古今亭


前に、落語にも一応の流派のようなものが、ある、と、書いた。
三遊派(さんゆうは)と、柳派(やなぎは)、である。
三遊は三遊亭(さんゆうてい)。柳は柳家(やなぎや)、である。
一方は、なんべんも登場しているが、明治の大落語家であり
作家でもある、三遊亭圓朝
そして、柳派の方は、明治の頃の、談州楼燕枝(だんしゅうろうえんし)、
その後の明治から大正にかけて、大名人といわれた三代目小さん、である。


このあたりから、一定の流れがある。
彼らの直系の弟子、三遊であれば、円生、から、今の円楽一門。
柳派であれば、人間国宝五代目小さん、小三治などなどの一門である。
そして、ちょっと、存在感では二派には劣るが、もう一派
志ん生を頂点とする、古今亭、である。
(ちなみに、何回か登場している、志ん生は、五代目である。)


もっとも、それぞれ、名前の貸し借りや、師匠を替えることも
よくあり、噺自体もそれぞれに、別の派に習いに行くのは
まったく問題がなかったため、柳派三遊派、古今亭で、
厳格に分かれていた、と、いうものでもない。


まれな例と、いってよいかも知れないが、
この紺屋高尾は三遊、幾代餅は、古今亭、と、分かれている。
(じゃあ柳派はどちらもできないのか、というと、
そんなことはなく、現に、小さんの弟子である、
談志家元は、紺屋高尾を演じる。)


このような、流派による違いは、他にもいくつかある。
御神酒徳利(おみきどっくり)、という噺があるが、
三遊派柳派では、まったく違う噺である。
(三遊は、ある商家の番頭が、そろばんで占いを始め、上方へ行く噺。
柳派は、二人旅の延長のような噺、である。)
このあたりは大きな違いだが、湯屋番(ゆやばん)と、いう噺では
三遊と、柳派では舞台となる銭湯の名前が違う、
などという、どうでもよい違いもある。


ストーリー


紺屋とは、染物や、である。
紺屋の白袴(しろばかま)などという成句もあるが、
その、紺屋、である。


話しは、いたって簡単。
真面目一辺倒の紺屋の職人が、あるとき、錦絵(にしきえ)で見た
吉原の花魁(おいらん)である、三浦屋という店の高尾太夫(たかおだゆう)、
に一目惚れをする。


吉原の花魁、といっても、ピンからキリまである。
この※1.高尾太夫なんというのは、最上位の部類で、
大名道具(だいみょうどうぐ)という、言われ方もした。
遊ぶ金額も高いが、花魁の教養も高く、見識も高い。
とても職人風情の相手になるようなものではなかったのである。
(ちなみに、お直し、なんという噺があるが、これは、キリ、の方である。)


元々、真面目な男であるが、一層磨きをかけて、三年間、
無駄遣いは一切しないで、金を貯め、念願かなって出かける。


当日は、職人では客になれないので、※2.野田のしょうゆ屋の
若旦那、というふれ込みで、登楼(あが)る。
※3.初回では高尾などの太夫は、いわゆる、お床入りは、ないのであるが、
頼み込み、果たす。


高尾太夫に、※4.「主(ぬし)は、今度は、いつ来てくんなます?」
と聞かれ、「今度は、三年後」、であると答えてしまう。
根が正直な男である。ここから紺屋の職人であること、
爪に火を灯(とも)すようにして、三年働かないと来れないこと。
それ程に、高尾太夫に会いたかったこと、を話す。


と、心を動かされた高尾太夫は、翌年の三月、年季明けと共に、
この職人と夫婦になり、染物やの内儀さんとして幸せに暮らした。


こんな話し、で、ある。


男が聞いておもしろい、というよりは、女性向けの噺であろう。
これだけ思われれば、幸せ、と、いうことであろうか。



※1.:高尾太夫
吉原でいう太夫は、「入山形に二つ星、松の位の太夫職」などと呼ばれ、
花魁の最高位である。当時、遊女三千人といわれた、吉原のなかでも
大店(おおみせ)は数軒。その大店の中でも、数人しかいなかった。
太夫とは、文字通り、当時の吉原の三千人の最高峰、ナンバー1であろう。


三浦屋とは実在の妓楼で、また、いわゆる、大店(おおみせ)でもある。
そして、三浦屋の高尾、という名前は個人の名前ではなく、
代々、三浦屋で、次いでいった名前である。
吉原の花魁の中では、最も有名な花魁の名前であろう。
この、紺屋高尾の話しが実話かどうかは、謎であるが、
何人か有名な高尾、がいる。
一名、仙台高尾と呼ばれている花魁がある。
仙台・伊達藩の殿様に思われ、身受けをしたい、と、いわれるのであるが
高尾の側で、旗本であったか、御家人であったか、別の思い人があり、
受けられない、と断る。
伊達の殿様は、「生意気である。」というので、無理やり身受けをし、
吉原から、連れて帰る途中、隅田川の三ツ又(今の箱崎あたり)で
殺してしまった、という、、、。すごい話し、である。


※2.:野田のしょうゆ屋
千葉県の野田市である。今でも、キッコーマンをはじめ、
大手のしょうゆメーカーの工場が多い。江戸の頃、利根川の水運と
消費地・江戸に近いことから、しょうゆの醸造が盛んになった。
今、キッコーマンといえば、わが国を代表する
世界のソイソースメーカーであり、大会社である。
茂木氏など、創業家の一族が、代々社長をつとめてきたが、
先頃、社長が代わり、初めて一族以外の方が社長になった、
ということで、話題になった。
野田のしょうゆ屋といえば、今でもそうであろうが、
当時もとてつもない、大店(おおだな)であり、
大家(たいけ)で、むろんのこと、金もあったのであろう。


※3.:初回
吉原などでは、一回目を初回、二回目を、裏を返す、三回目からを、馴染み、
と、いった。「裏を返さないのは客の恥じ、馴染みを付けさせないのは、
花魁の腕の悪い、、、」などという言い方も落語には出てくる。


※4.:「・・・くんなます」
里言葉(さとことば)、という言い方もする。
花魁が使った吉原独特の言葉である。
「・・・でありんす」、「・・・どこにいきんしたえ」、
「・・・浮気をすると、ききまへんえ、、」
などと、いう。
一説には、田舎育ちの花魁も多く、訛(なま)りを隠すために
こうした言葉を使わせた、ともいう。