浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。(内容は本店と同じです。)

断腸亭料理日記本店



吾妻橋藪そば・その1

dancyotei2007-11-18



11月18日(日)昼


日曜日。


第一食は、チキンライスが食いたかったのだが、
鶏がないので、ウインナーをきざんで、まあ、ケチャップライス。
ウインナーと玉ねぎのみじん切りを炒め、ブランデーを入れるのが、
ポイント、で、ある。





午後、落語の稽古を兼ねて、出る。
目的地は、吾妻橋


今日は、吾妻橋藪そば、と、床屋。


元浅草の拙亭から、真っ直ぐ東へ。
新堀通りを渡って、寿。
さらに、国際通りも渡り、ここも寿。


浅草消防署を右に見て、直進。
ここから、駒形。


右側におもちゃのバンダイの本社ビル。
キャラクターの人形が並んでいる。


左側から、しょうゆのいいにおいがしてくる。
板塀。有名な、駒形どぜう、で、ある。


通りに出る。


駒形の町名の由来は、現在駒形橋の西詰め北側にある、
駒形堂から。


ではなぜ駒形堂なのかというと、駒形堂の本尊が馬頭観音であるから、
という他、諸説あるらしいが、はっきりしたことはわからないようである。


今は江戸通りといっているこの通り(蔵前通り)は、江戸初期にさかのぼれば、
奥州街道の本道で、駒形堂はそのころから、ここにあったようで、
駒形町もその頃までさかのぼれるようである。


君はいま駒形あたりほととぎす


という句をご存知であろうか。
吉原の花魁、二代目の高尾の作といわれている。


高尾は吉原の三浦屋という大籬(おおまがき、大店)の抱えで
初代から、なん代も、代々名前を次いでいた。


落語ファンの方ならば、紺屋高尾なんという有名な話もあるので
ご存知であろう。
(紺屋の職人の純情にほだされて、年季が明けると、
その男に嫁ぐという噺。)


先の句を詠んだという高尾は、仙台高尾とも呼ばれ、
仙台伊達藩の殿様に無理やり身請けをされ、
大川(隅田川)のここより下流の三又(箱崎あたり)で
殺されたという話もある。


ともあれ、バンダイの前で、蔵前通り(江戸通り)を渡り、
さらに一本奥の川沿いの路地へ。
この家並みの向こうはもう、川の堤防。


北へ上がると、右側にうなぎ屋の前川


今は、鉄筋コンクリートだが、この店も古い。
池波先生はよく来たらしい。
同じく落語(人情噺)、子別れ、の下に出てくる
うなぎ屋である、ともいう。


浅草通りに出て、右に。
北側に、先の駒形堂。
今は、きれいなコンクリート製のお堂。


駒形橋を渡る。
この橋は、昭和2年竣工。
着工が大正13年だそうで、関東大震災の翌年。


それまでは駒形の渡し。渡し舟。


駒形橋を渡り、河岸道を北へ。
隅田川の河岸は、墨堤、などというが、今、ここは
情緒などなにもない、コンクリートの堤防と、上には首都高向島線。


すぐに、吾妻橋、東詰め。


吾妻橋が、最初に掛けられたのは、1774年(安永3年)。
江戸中期、ずばり、田沼時代。


この頃に掛けられたというのは、剣客商売などでも
池波先生がよく書かれている。
江戸時代にあった、大川(隅田川)の
橋(南から、永代橋、(新)大橋、両国橋、大川橋)の中では
最も後であるという。


江戸期には正式には大川橋で、東(吾妻)橋は俗称だったらしい。
正式に吾妻橋になったのは、明治になってから。
現在の橋は、震災後の昭和6年に掛けられたものという。


吾妻橋も落語にはよく登場する。
やはり、中でも筆頭に上げなければならないのは、文七元結
(ぶんしちもっとい)であろう。


噺の詳細は、はてなページをご参照されたいが、
人情噺のなかでも、好きな噺、で、ある。
志ん生師と、やはり、談志家元のものがよいだろう。)


真っ暗な吾妻橋の上で、商家の若い手代、文七が身投げを
しようとするのを、左官(しゃかん)の長兵衛が、
自分の娘が吉原へ身を沈めた金をやって、止める。


この噺の一つの見せ場が、この橋の上で展開される。





長くなってしまった。今日はここまで。


続きは、また明日。





参考:下谷浅草町名由来考(台東区




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