浅草在住、断腸亭錠志の断腸亭料理日記はてな版です。
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丼もの考察 その2

dancyotei2012-02-12



さて、引き続いて、
丼もの考察。


丼もの史、と、いった方が適切かもしれぬが、
歴史、というほどのこともなかろう。


ともあれ、丼ものというのはいつ頃生まれたのかを


調べている。


調査対象は、明治からの新聞に出てくるもの。


最初の二つは、鰻丼(うなぎどんぶり)、で、あった。


前回書き落としたが、最初の糸瓜野郎は明治12年
後の新富座の大喰いは、前後してしまったが、明治10年


これでちょっと、注目したいのは、
前回のものを読んでいただいた方は賛成していただけると
思うのだが、糸瓜野郎も大喰い爺さんも、
実に生き生きとしているということ。


または、生き生きと、描かれている、ということ
なのかもしれない。


書いているのはどんな人なのであろうか。
今イメージするような、社会部の新聞記者というような
人ではないのかもしれない。いや、おそらく、違うだろう。
そんな人が『糸瓜野郎』や『大喰い爺さん』なんという言葉は
使うまい。


もしかすると、まだまだ江戸の戯作者の流れを汲む人が
書いていたのかもしれない。


また、前号で書いたが、居直った『大喰い爺さん』は
まるで、落語の『居残り佐平次』。


〜ご存知ない方に、簡単に『居残り佐平次』を説明する。


舞台は品川の女郎屋。最初から金がないのを
承知でバンバン頼み、二日三日と、帰らずに
居続ける。(吉原、品川など昔の遊郭の世界では、
居続け(流連などとも書くが)といった。)


途中、勘定の催促をされるのだが、その都度誤魔化し、
三日目あたりについに逃げ切れなくなり、金がないのが
発覚する、という噺。(この後がまだあるのだが、
ご興味のある方は、本物を聞いていただきたい。
これはもう、亡くなった談志家元しかない。
DVDにもなっているので、是非。)



これらを読んでいると、こんな江戸、さらに明治初期の
東京の空気から落語も生まれてきている、と、
感じられるのである。


さて。


丼の話であった。


明治10年前後には、うなぎのどんぶり、
というものが既に一般化していた、といえるのだろう。
12年は糸瓜野郎の年だが、同じ年の別の紙面では、
こんな広告も出てくる。


『重箱詰上等鰻飯 御壱人前代價十二銭五厘より


 三十間掘川岸通り きつね鰻』


うな重、で、ある。


うなぎどんぶりもあれば、お重詰も既にあった
のである。(うなぎやの屋号にきつね鰻というのはおもしろい。)


値段であるが、12銭5厘。
これは現代のいくらくらいになるか。
米の値段で換算すると700円くらい。


うな重の価格として700円はちと安いようには
思われる。


ちなみに、三十間掘というのは、銀座にあった堀。
晴海通りを銀座四丁目の交差点から昭和通り
方向に歩くと、三原橋という信号があるが、
ここが三十間掘の跡である。


さて、さて。


もう少し時代を追って、丼関連の(無銭飲食)記事を紹介しよう。


これは、引越。明治14年1月11日の記事。


ある男が、陸軍軍馬局一等御雇いの藤浦某と名乗り、
本所若宮町のとある借家(店・タナ)を借りて掃除を始めた。
この男が近所の町から、鰻飯(うなぎめし)、酒、その他を取り、
十分に呑み食いしたあと、ドロン。


これも、なかなか、考えた、といえようか。


この頃といえどもそうそう簡単に部屋は借りられないとは
思われる。しかし、目的が食い逃げであれば、
身分証明やなにかは、また後で持ってくる、などと、
調子のよいことをいって、一先ず掃除を始め、
うなぎを取ってしまえばこっちのもの。
意外にチョロイ、かもしれぬ。


次は、少し時代が下って明治24年


見出しは、またまた、『大喰泥棒』。


麹町区下二番町の士族、上原某方同居の雲下某。
上原と共謀し、


1.紀尾井町の白米商から六圓分の白米を三度


2.麹町二丁目の菓子商某から赤飯一圓分


3.同十二丁目の菓子商某から赤飯二圓分


4.同区山本町三丁目の菓子商某から赤飯二圓分


5.同二丁目天麩羅屋某で天麩羅丼(てんぷらどんぶり)六個


6.同五丁目鮨屋某で五もく丼(ごもくどんぶり)十一個


7.六丁目菓子商某で大福餅一圓三十銭分


8.同五丁目天麩羅屋某で天麩羅丼十一個


9.同四丁目鰻屋某で鰻丼(うなぎどんぶり)六個


を騙取したという。予審終結、近日公判とのこと。



これが四か月間のことらしい。


見出しが『大喰泥棒』だがこれ、実際にこの雲下某と、
上原某二人だけで食べたのではなかろう。
天麩羅丼十一個や鰻丼六個は、どう考えても二人では
食べきれまい。誰かのために出したのだろう。


麹町は山手のお屋敷町、で、ある。
その二番町に住むというのであるから、おそらく
ちゃんとした庭などもある家に住んでいる者、であろう。
前回の糸瓜野郎や大喰い爺さんとは少し違う。
この二人は下町で、おおかた長屋住まい。


下町の彼らの行動からにじみ出てくるなんらか
“のどかな感じ”は、この二人からは感じられない。


家がわかっているので逃げようという意図は
あまりないように思われ、同じく確信犯ではあろうが。


山手のワルというのか、不良?。


場所が場所だけに江戸の始め、旗本奴などといわれ、
江戸の街を暴れまわり、この番町に屋敷があった、
不良旗本水野十郎左衛門を思い出させるか。
いやいや、もっとこいつ等は、セコイ。


ともあれ。


ここで初めて、天麩羅丼(てんぷらどんぶり)
というのが、それも、二回も登場している。


それ以前、天麩羅は出てきていたが、天麩羅丼、という
言葉は出てきていない。
明治24年のこの頃には定着していたことは事実であろう。


(ついでだが、同時に鮨やの、五もく丼、というのも
登場している。これは五目寿司=ちらし寿司のような
ものなのか。)



明治の10年頃には、鰻丼、そして20年に入り、
天麩羅丼が定着していた。
この順番は、たまたま、新聞に出てきた、という可能性も
否定はできないが、鰻丼と天麩羅丼の間には、
若干の時代差がありそうな気はする。






この項、つづく。